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中国政府に逆らうと「無理やり注射され、ゾンビのようにされた」 仕事奪われ強制入院、命からがら「自由の国」日本へ…でも待っていたのは「入管の壁」

47NEWS / 2024年1月9日 10時30分

大阪市の自宅アパートで窓の外を見つめる周暁さん=2023年7月

 2012年5月の昼ごろ、中国、上海近くの江蘇省・無錫市に住む周暁(しゅう・ぎょう)さん宅がノックされた。ドアを開けると、警察官が3人。
 「ちょっと話したいから来てくれ」
 周さんは拘束され、車に乗せられた。思い当たる理由はあった。1週間前、政府を批判する行動を取ったためだ。連れて行かれた先は、市内の精神病院。地獄のような強制入院生活の始まりだった…。
 中国政府による政治的迫害を理由に、海外に逃亡する中国人たち。香港の民主化を求めて活動し、日本でも有名になった周庭(アグネス・チョウ)さんはカナダに出国したが、中には日本に向かう人もいる。現在、大阪市に暮らす周さんもその1人だ。
 「中国には自由がない。日本は自由の国」と期待して来日し、難民申請をしたものの壁にぶち当たった。日本の難民認定率はわずか1%未満。「自由と民主のある場所で暮らしたい」という切なる願いは、認められるのか。(共同通信=武田惇志、福原健三郎)


中国・北京の天安門広場で掲揚される国旗

 ▽文化大革命を批判、転職させられ…
 周暁さんは1986年、無錫市で生まれた。1年後に両親が離婚し、母方の祖父に引き取られて育った。少年時代の将来の夢は政治家で、中華民国を建国した孫文のようになること。
 孫文を尊敬するようになったのは、民主主義者だった叔父に感化され、歴史好きでもあったためだ。話が孫文について及ぶと、周さんは「中華民国はアジア最初の自由国です」と誇らしげに語る。


周さんの自宅の冷蔵庫の上に置かれた古い写真=2023年7月、大阪市

 地元の高校を卒業後、2004年にIT技術の専門学校である無錫職業技術学院に入学。学生がスピーチをする授業で、周さんは文化大革命について次のような意見を述べた。
 「文革の結果、真実を言う者がいなくなり、国全体が混乱に陥って停滞した」
 教員や同級生がその場で批判することはなかったものの、発言内容は外部に漏れた。
その結果、政府の公文書に記載されてしまったという。2007年に専門学校を卒業し、IT系の会社に就職したものの、共産党への批判的な態度が同僚や上司に伝わった。会社を辞めざるを得なくなり、転職を余儀なくされた。同じようなことはその後もあり、転職を繰り返した。


厳しい表情で記者の取材に応じる周暁さん=2023年7月、大阪市

 ▽爆音で流した天安門事件の映像音声
 2012年5月、システムと外部のインターネットをつなぐVPN(仮想専用線)を使った際、YouTubeでイギリスBBC放送による天安門事件のドキュメンタリー映像を見つけ、衝撃を受けた。
 「映像で、価値観が全て変わりました。以前は共産党に対し、少し忌避感があった程度でしたが、学生を銃殺するような残忍なことは受け入れられないと感じました。中国政府は六四(天安門事件)自体をなかったことにしているので、事件があったことさえ知らなかったのです」


来日時はこの小さなスーツケースひとつだった=2023年7月、大阪市

 音声だけでも近隣住民に聞かせたいと、スピーカーを外に向けて爆音で音声を流した。次第に近所の人々が集まって騒ぎ始める。周さんが姿を現すと問い詰められた。
「お前はなんでそんなに共産党に不満があるんだ?」「どうして共産党を罵るのか」
 周さんが「どうして罵ることができないんだ?俺はひとりの市民なんだから、一市民として罵る権利がある」と言い返し、口論に。住民たちは「たぶん面倒なことが起きるぞ」と言い残し、去って行った。


シナピスで作業する周さん=2023年7月

 ▽強制入院「拒否すれば家族全員を処分」
 約1週間後、5月25日の昼ごろだった。ノックに応じてドアを開けると、警察官が3人立っていた。精神病院に連れて行かれた。
 病棟では、周さんの家族が医師と入院の手続きをしており、「2カ月入院すれば退院できる」と言われた。従わざるを得ず、そのまま白い壁で覆われた3メートル四方の個室に連れて行かれた。ベッドが一つあるだけの、がらんとした部屋だった。
 翌日、見舞いに来た祖父らが周さんに伝えた。「警察から連絡を受けた。強制入院を拒否したら家族全員を処分すると言われた」
 精神障害者として扱えば、共産党への批判は真剣に受け止められなくなるし、同時に心身の自由も奪うことができる。周さんは当局の意図をそう推測した。


自宅で窓の外を見つめる周さん=2023年7月、大阪市

 ▽注射され、ゾンビのように無気力に
 医師の診察もないまま、「統合失調症」という扱いに。治療薬を飲まそうとする男性看護師は、拒む周さんをベッドに手足を固定して縛り付け、口の中に無理やり薬を押し込んだ。注射もした。反抗すると、顔面を殴られた。
 連日、薬を投与され続けた。元気がなくなり、鬱状態になった。
 「無理やり注射され、とにかく怖かった。その後は眠れなくなり、ゾンビのように無気力になりました。思考する力を奪われたようでした」
 地獄のような強制入院生活は4カ月続いた。


大阪市の支援施設「シナピス」で取材に応じる周暁さん=2023年7

 無事に退院したのもつかの間。2015年12月に母親と喧嘩をした際、母親が警察に駆け込んだ。再び強制入院。1度目と同じような仕打ちを受け、翌年3月に退院した。入院費用を家族が払えなくなったためだった。
 アパートに戻ったが、再び警察が現れるのでは、とおびえ暮らす日々。次第に学生時代の友人も離れていき、近隣住民からも無視されるようになった。周囲に常に監視されていると意識した。アパートのある住民は、定期的に周さんの近況を住民委員会に報告していたという。そして、その日は突然やってきた。


シナピスでカップ麺を食べる周さん=2023年7月

▽「反逆分子」母にののしられ…
 2017年6月4日。警察が突然部屋に押し入り、パソコンのハードディスクを押収していった。6月4日は天安門事件の日。不満分子に対するデモンストレーションとしての家宅捜索かもしれないと感じた。
 改めて身の危険を感じた周さんは、かねてから家族に秘密で取得していたパスポートを手に、出国の計画を練り始めた。考え抜いた末、選んだのは隣国の日本。
 「日本は自由の国ですから。言論の自由、報道の自由があります。中国にはありません」
 2019年4月、貸金業者から金を借り、50センチほどの小さなキャリーバッグに衣服だけを詰め込み、家を出た。上海の空港で止められるのではないかと気が気でなかったが、無事に飛行機に乗り込んだ。
 関西空港に到着すると、スマホに母からのメッセージが届いていた。
 「おまえは反逆分子だ。永遠に中国に足を踏み入れないで。戻ってくるとしても、もう二度と生きる道や自由なんか得られないよ」


社会活動センター「シナピス」が入るカトリック大阪高松大司教区の建物(大阪市中央区)

 ▽日本での支援、急ピッチで難民申請
 来日後しばらくは大阪市西成区の安ホテルに滞在した。日本に頼れる人はおらず、次第に手持ちの金がなくなっていく。
 そんな時、カトリック大阪高松大司教区の社会活動センター「シナピス」(大阪市中央区)の存在を知った。訪日外国人を支援しているという。さっそく行って相談してみた。


シナピス」でインタビューに応じる松浦・デ・ビスカルド篤子さん=2023年8月

 対面したシナピスの松浦・デ・ビスカルド篤子さんはその時のことをこう振り返る。
 「周さんは何も口にしていなかったようで、ひどい空腹状態でした。それに精神的にも不安定な様子でした」
 松浦さんは、周さんから来日に至る経緯を聞き取り、強制入院や家宅捜索に関する書類を確認した上で、難民認定されうる事案と判断した。弁護士や通訳者らと数人で専属チームを組み、急ピッチで申請書類を作って2019年4月、大阪出入国在留管理センター(大阪市住之江区)に難民申請した。


大阪出入国在留管理局(大阪市住之江区)

 ▽開かれなかった「審尋」
 しかし、申請は2020年12月に退けられた。松浦さんは「想定していた」と語る。
 「むしろ不認定後、こちらの異議申し立てによって開かれる手続きである『審尋』で、詳しい審理をしてもらうことを期待していました」
 審尋には外部有識者である難民審査参与員が対面で参加する。入管側の職員だけで構成する最初の難民審査より、公平で中立な手続きになることが期待できるという。しかし、その期待はもろくも崩れ去った。
 約2年後の2023年1月、大阪入管からの報告は「法務大臣が異議申し立てを棄却した」。提出した親戚の聴取記録と周さんの証言に矛盾があり「信ぴょう性を認めることができない」などというのが理由だった。
 この間、難民審査参与員らが調べたのは提出書類だけだった。松浦さんたちが期待していた対面での審尋は一度も開かれなかった。


松浦・デ・ビスカルド篤子さん=2023年8月

 ▽「ゲームオーバー」
 ここからの入管の行動は早い。周さんに対し、ビザ期限である1カ月後の2月までの出国を求めてきた。周さんは思わずつぶやいた。「ゲームオーバー」
 まずは強制送還を避けなければならない。松浦さんはすぐにビザの変更手続きに取りかかった。
 周さんにはパソコンに関する技術がある。専門知識だ。2023年3月、シナピスが技術職員として雇用することを前提に「技術・人文知識・国際業務(技人国)ビザ」を申請。無事に取得でき、滞在期間を延長できた。


シナピスでパソコン作業をする周さん=2023年7、大阪市

 周さんはシナピスの支援で大阪市内にアパートの部屋を借り、日本で一人暮らしを始めた。「技人国ビザ」取得後はシナピスに通い、定期的にパソコン修理の仕事を請け負うことで糊口をしのいだ。「周さんの仕事は早い」とシナピス職員からも好評だ。10月末に退職し、現在は留学生らを受け入れている派遣会社に就職。日本語も学んでいる。
 だが、心配は尽きない。ビザの期限は1年で、2024年3月の期限切れが迫っている。どうするべきか、方針は定まらないままだ。
 周さんは当初から日本の難民認定の厳しさを知っていたという。諦めたくない気持ちも強い。「自由と民主の国に暮らしたい」と何度も口にした。
 「もし難民になれたら?」。記者が問うと、周さんはゆっくりと日本語で答えた。「日本の料理が好きです。勉強して、レストランを経営したいです」

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