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4年で戦力外通告、でも「意外とスッと入ってきた」 国立大学から中日の育成選手になった左腕が見た「プロの投手の凄み」

47NEWS / 2024年1月14日 10時0分

プロ3年目のキャンプで投球練習する松田さん=2022年

 4年間の挑戦が終わった。国立の名古屋大学からプロ野球に進み、中日で育成選手としてプレーした松田亘哲(まつだ・ひろあき)さんが昨年10月に戦力外通告を受けた。「意外とすっと入って来ました」という来季の契約はないとの知らせ。勝負の世界に身を置き「いろんなことを知れたし、いろんな人に出会えた」。現役引退を決断し、この先の人生へと向かう松田さんが痛感した、プロの世界の「レベルの高さ」とは。(共同通信=原嶋優)


名古屋大時代の松田さん=2019年

 ▽異色のプロ野球選手
 中学時代は軟式野球のクラブチームでプレー。3番手ぐらいの投手でレギュラーではなく「野球はもういいかな」と、愛知・江南高校では仲のいい友達とバレーボール部に入部した。当時は身長が大きくなかったこともあり、ポジションはリベロだった。


 だが、高校野球を見るなどするうちに野球熱が再燃する。大学では硬式野球を始めることを決め、受験の時期に硬式球でキャッチボールをして入学に備えた。1年秋には球速が140キロに届き、「やるんだったらプロを目指す」と決断した。
 「名古屋大で同級生にプロに行きたいと言っても笑われることもなかった。監督も協力的で、周りに支えてもらうことが多かったです」。周囲に恵まれ、努力も実って育成選手での中日入団を勝ち取った。


中日の入団記者会見で与田剛監督(当時)らと記念撮影。後列右の背番号207が松田亘哲さん=2019年

 ▽痛感したプロの壁
 中日では同じ世代に神奈川・東海大相模高で夏の甲子園大会優勝投手の小笠原慎之介投手や、慶応大で大学日本代表に選ばれた郡司裕也捕手(現日本ハム)などそうそうたるメンバーがいた。一般入試で国立大に入った松田とは歩んできた道があまりにかけ離れていた。
 輝かしい実績を誇る顔ぶれに「負い目というか、この人たちはすごい人、みたいなのはありました」と明かす。「そんなの関係ないと気づけたのはけっこう後」だった。
 1年目は左肩を痛めて投げられない時期が長かった。秋に復帰したが「何か定まらなくなって。けがをしたら投げ方が変わっちゃったんですよね」。大学時代には当たり前のように140㌔台中盤の球が投げられたが、ようやく投球を再開すると球速が出なくなっていた。
 2年目に2軍公式戦でデビューし、16試合で防御率3・38をマーク。26試合に登板した3年目には球速が140㌔台中盤まで戻ったが、48回で45四死球と制球が安定せず、防御率は7・13と悪化した。真面目に自分に向き合うからこそ、より高く感じるプロの壁。ブルペンでの投球練習中に、迷いから動作を止めてしまったこともあった。
 「結果を出さないといけない時に投げられない…」。迷い込んだ暗闇で苦しんだ。


プロ3年目の春季キャンプで投球練習する松田さん=2022年

 ▽1軍で戦う選手との違い
 周囲はすごい投手ばかり。キャッチボールをする度にレベルの高さを実感した。
 「又吉(克樹)さん(現ソフトバンク)はムチのようにしなって飛んでくるボール。谷元(圭介)さんと祖父江(大輔)さんは制球が良く、ボールが胸にしか来ない。(小笠原)慎之助のボールは途中から加速する。目の前でガッと来る球。勝野(昌慶)は勢いがあってボールが大きく見える」
 1軍で結果を残す投手には、それぞれに特長があった。プロで生き残っていくための武器を見いだすことができないまま、4年目の昨季も12試合で防御率6・97と成績は上向かず、戦力外通告を受けた。
 成功体験がなかったわけではない。昨季終盤には、通っていた鳥取市のトレーニング研究施設「ワールドウィング」でヒントを得たツーシームを軸に2軍戦で好投できた。自分の中で納得できる一つの形を見つけて、プロ野球人生を終えた。


春季キャンプでランニングする中日の選手たち=2023年2月、沖縄・北谷

 ▽「野球ができたことに感謝」
 1軍戦に出場できる支配下選手を目指してもがき続けた4年間。うまくいかないことも多かった。
 「正直自分の中であの時こうすればというのはあるけど、手を抜いていたわけじゃないので。その時の最適解を目指してやっていました」
 悔しさはあっても、やれるだけのことはやったというすがすがしさが漂った。
 ただ、世話になった人や身近で応援してくれた人たちへの報告だけは苦しかった。「連絡していくうちにだんだん悲しくなるんですよ。しんどいと思ってしまいました」
 選ばれた者しか立てないプロ野球の舞台で戦ったことは財産だ。
 「高校、大学で野球をやめる人が多いじゃないですか。自分の限界が見えて、うちひしがれてあきらめたり。それと同じ経験をプロ野球という場でしたのかなと思います。26歳まで野球ができたことに感謝しないといけないですね」
 現役を続ける道は模索せず、好きだった野球をやめることを決めたが、「野球がないとだめっていうのはなかったですね」と再出発へ向けてきちんと気持ちを整理できた。「(プロ野球での4年間が)よかったというのは後々の自分が決めるんで。そういう風に思えるように頑張らないと」と決意を込めた。


戦力外通告を受けた松田亘哲さん=2023年10月5日、名古屋市

 【取材を終えて】
 プロを目指していた大学4年のころから取材させてもらった。ドラフト会議で夢をかなえ、プロの世界で頑張る姿を追ってきた。オフの自主トレーニングでは、キャッチボール相手を務めさせてもらったのも貴重な経験だ。プロの投手の球威に驚かされた。グラブが勢いに負けてはじかれる感覚があり、ボールの強さはこれまでキャッチボールをした誰よりも強かった。
 プロ野球選手ではなくなっても、野球への思いと探究心は変わらないようだ。戦力外通告を受けた後に一緒に食事をした際、筆者が今季取材した阪神の大竹耕太郎投手が球速の異なるスローボールを続けて抑えた話をすると、「いつの試合ですか?」と興味津々で動画を探し始め、食い入るように画面を見詰めていたのが印象的だ。
 今後は純粋に野球を楽しむ一ファンに戻るだろう。就職試験では適性検査の準備を怠らず高得点を取り、3度の面接を突破してメディア業界への内定を得た。支配下選手登録や1軍のマウンドには届かなかったが、特別な時間を過ごした4年間を胸に歩むこれからの人生を応援していきたい。

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