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「先祖代々の土地が沈む」美しい故郷は巨大ダム湖の底に…国策で立ち退いた300人の「その後」

47NEWS / 2024年2月8日 10時30分

田子倉ダム。かつてダム底に田子倉集落があった=2023年10月27日、只見町

 会津若松(福島県会津若松市)―小出(新潟県魚沼市)を結ぶJR只見線。風光明媚な景色を楽しめる「秘境路線」として知られているが、もともとこの路線の一部は、ダム建設のための資材運搬専用鉄道だった。只見駅から約5キロの場所にある「田子倉ダム」だ。かつては「東洋一」と呼ばれ、現在も稼働を続ける巨大な発電用ダム。1950年代の工事開始前、ここには約300人が住む田子倉集落があったが、湖底に沈むため住民は立ち退きを求められ、各地に離散した。
 日本の戦後復興や経済成長と引き換えに、自然豊かな土地を奪われた人々は、その後どうなったのか。つてを頼り、やっと出会えた元住民たちは〝桃源郷〟と呼ばれた古里を今も鮮明に覚えていた。(共同通信=島田早紀)


 ▽首都圏の経済成長を目的に推し進められたダム計画
 田子倉発電所は1954年に着工し、1959年に営業運転を開始。1961年、出力38万キロワットと当時日本一の水力発電所として完成した。現在の出力40万キロワットは、今も一般水力で国内2位だ。5億立方メートルもの水をためることができる。
 所有する会社「電源開発」は、政府と9電力会社の出資で1952年に設立。2004年に完全民営化された。今も田子倉ダムで発電した電力の4分の3を東京電力に、残りの4分の1を東北電力に供給している。


田子倉ダムの上空写真=2004年6月。J-POWER(電源開発)提供

 田子倉発電所の建設では、資材運搬専用鉄道の敷設も含め、約340億円の費用と延べ300万人の人員が投じられた。冬に4、5メートルもの雪が降る豪雪地帯での工事は困難を極め、43人が命を落とした。
 建設計画が具体化したのは終戦後の1950年代。首都圏の経済発展を支えるため、政府は1951年に「只見川特定地域総合開発計画」を発表。只見川流域で田子倉ダムを含む多数のダム建設を強力に推し進めていった。


水没前の田子倉集落=撮影年月日不明(只見町ブナセンター提供)

 ▽とどろいたダイナマイト音、震えた窓ガラス
 移転前の集落の様子を鮮明に覚えている人がいると聞き、訪ねた。只見駅近くで出迎えてくれたのは新国道子さん(91)。新国さんは8人きょうだいの三女として生まれ、結婚を機に田子倉ダムから約5キロ北東にある只見町中心部に移り住むまで、約20年間を田子倉の地で過ごした。
 「田子倉について覚えていることを全て教えてほしいです」と聞くと、新国さんは宙を見つめ「あんな良いところはなかったよ」とほほ笑んだ。「集落の中心には小高い山があって、そこが子どもたちの遊び場だった。夏には川の浅瀬で毎日水浴びをしたんだ」


新国道子さん=2023年10月19日、只見町

 山には山菜があふれ、只見川をイワナやマスが泳いでいた。山に入ってクマやカモシカを狩る猟師もおり、そんな自然の恵み豊かな土地を人々は「桃源郷」と呼んできた。
 建設当時、新国さんの母親は建設反対運動の中心人物だった。集落の建物に「金は一時 土は万年の宝」「政治やと電気やのエサになるな」などと書いたビラを大量に貼っていたとされる。


田子倉ダム建設時、集落の建物に張られた反対のビラ=撮影年月日不明(只見町ブナセンター提供)

 新国さんは懐かしそうに話す。「建設現場にふん尿を投げて抵抗する女性もいた」。大人たちが自宅の囲炉裏を囲み「先祖代々の土地を俺らの代で沈めさせるわけにはいかねぇ」と話し込んでいた姿も忘れられないという。
 しかし、建設工事は強制的に進められた。「周囲の岩山がダイナマイトで爆破される度に、家の窓ガラスががたがたと揺れたんだ」
 強行突破で進められた工事にあきらめた人、多額の補償金を提示された人…。50戸300人の住民は1人、また1人と移転に応じ、只見町内や東京都、神奈川県など、福島県内外に離散していった。


田子倉ダム=2023年10月12日、只見町

 新国さんの両親らも福島市に移転。新国さんは田子倉が沈む前、壊された自宅を目にした時のことをこう振り返る。「生まれ育った家が上から下までめちゃくちゃになっていた。木々の影に隠れて泣いたら、おぶっていた当時3歳の娘が『母ちゃん、なぁに泣いてるんだ』って不思議そうに聞いてきたんだ」
 新国さんは今も定期的に田子倉ダムに足を運ぶという。「行って水の下を見つめても、何がどこにあったのか全然分からなくなっちゃったの。自分の大好きな故郷なのにね」。寂しそうに笑った。


只見線全線開通時のアルバムを手にする目黒和之さん=2023年11月17日、只見町

 ▽連日SLで大量に運び込まれた建設資材
 国鉄に就職し、只見線の保線に携わり続けた只見町内の目黒和之さん(78)も、田子倉で育った一人。小学校4年だった1955年に田子倉を離れた。子どもながら、日々着々と進められた工事の記憶を胸に刻んでいるという。
 「通っていた学校の校舎から、大量のセメントや発電機の巨大な部品を載せた貨車が毎日朝と夕方の2回、田子倉の方に走っていくのが見えたんだ」。山間部の急勾配を登れるよう、先頭の蒸気機関車(SL)は重連になっていたという。


建設当時の田子倉ダム。1956年~59年ごろと思われる=J-POWER(電源開発)提供

 田子倉ダムの貯水が始まった1959年には、父親と一緒に電源開発の式典に参加した。「ダムの巨大な水門が『バン!』という音ともに閉まる音を聞いた。まさに田子倉が沈み始めた瞬間だった」。式典終了後に自宅に戻ると、裏を流れていた川の水が枯れ、魚が何匹も死んでいた。
 少年時代に毎日眺めていたSLへの憧れが高じ、高校を卒業後は国鉄に就職した。その前年の1963年には、会津川口―只見間が田子倉ダム専用鉄道から国鉄に編入された。目黒さんは只見線の線路点検や除雪などを行う保線員として40年以上働いた。


田子倉ダムを見る手塚スミ子さん=2023年10月27日、只見町

 ▽「田子倉なしに日本の戦後復興は語れない」
 昨年10月、田子倉出身の手塚スミ子さん(76)と田子倉ダムを訪れた。2022年まで田子倉の歴史を紹介する資料館でガイドを務めていた手塚さんによると、移転時のことを覚えている田子倉出身者はもう10人ほどしかいないという。
 「あと10年もしたら田子倉の記憶を話せる人はいなくなってしまう。けれど、田子倉なしに、日本の戦後復興は語れない」。手塚さんは力強く訴えた。


「田子倉の碑」を見る手塚スミ子さん=2023年10月27日、只見町

 ダムの横には、1973年に集落出身者らが設置した「田子倉の碑」がある。手塚さんは目の前の巨大なダム湖を見渡すと、石碑に手を添え、刻まれた文字を読み上げた。
 「この湖の底に私たちのふるさと田子倉がある。私たちは国家的要請にしたがい、全戸移転のやむなきにいたり、第二の故郷を求めて四散した」
 桃源郷が沈んでから今年で65年。湖面は、変わらず静かに水をたたえていた。

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