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断水しているのに「温かいお風呂とご飯」がある避難所、どうやって? 能登半島の先端で、住民とボランティアが支え合って「自立」

47NEWS / 2024年5月2日 10時30分

自主避難所となっている「珠洲市自然休養村センター」で、ボランティアに地元の食材を用いた料理を振る舞う小秀一さん(右から2人目)=2024年3月

 能登半島地震の被災地、石川県珠洲市は4月下旬の今も多くの住宅で断水が続いている。半島のほぼ先端に位置し、大きな被害が出た沿岸部の馬緤町地区で、自主避難所となっている「珠洲市自然休養村センター」を訪ねた。そこで避難者の方から掛けられた思わぬ言葉に驚いた。「お風呂に入っていかれますか」


 断水しているのに、どうやって?キッチンを見ると、住民たちが夕食の料理をしている。水をどう確保しているのだろう。ひょっとして井戸水が豊富にあるのだろうか。考えを巡らせながら、これまでの経緯を詳しく聞いてみた。すると、生まれ育った故郷への思いを胸に奮闘する住民や、技術を生かして活動するボランティアの姿が見えてきた。(共同通信=平等正裕、西岡克典)


珠洲市自然休養村センター

 ▽避難所運営のこつは情報、ルールの共有
 「忘れられない誕生日になりました」
 郵便局に勤める小秀一さん(60)はこう言って苦笑した。1月1日夕は、家族で特産の能登牛を使ったすき焼きを味わいながら、誕生日祝いをしてもらう予定だったという。ところが、大きな揺れが襲う。
 津波を警戒し、高台に避難。車中泊で一夜を明かし、翌朝に被害が少なかったセンターに入った。避難者はおせち料理や発電機を持ち寄り、小さんも牛肉を持参。温かい食事につかの間の安堵が広がった。
 「ここが無事で幸いだった」
 ただ、すぐには救援が届かない。余震も相次いで不安が高まる中、避難者たちの支えになったのが、防災士資格を持つ住民の国永英代さん(51)。こう言って周囲を励まし続けた。
 「1週間以内に自衛隊が来る」。その見立て通り、1月6日に自衛隊が到着した。


防災士資格を持つ国永英代さん=2月

 国永さんには1995年の阪神大震災の経験があった。当時は大学4年生。ボランティアとして被災地に向かい、炊き出しに参加した。その際、避難所の運営や地域の復興には住民の力が重要だと痛感したという。
 「隣近所に住む人の顔が分かる馬緤町だからこそ、住民自身の力でやっていくことができるのではないかと感じた」
 国永さんが徹底したのは住民の情報共有。安否が確認できた人や所在地を、センター内に貼り出した。センターには多い時で約60人が寝泊まりしていた。定期的にミーティングを開き、トイレの使い方など、共同生活のルールも周知した。


情報共有のため注意事項を書き出す国永さん(左)=1月

 誰が生きていて、どこに避難しているのか。危険で近づかない方が良い場所はどこか。口頭ではなく、目に見える形で示すことで正確な情報を伝える狙いがあった。
 「災害関連死がないようにしたい。せめてここにいる間は助け合い、笑い合っていければ」
 娘で大学生の鮎美さん(21)は、そんな母の姿に驚いたという。さいたま市から2月中旬に帰省。2週間ほどセンターで暮らした。
 「自給自足でたくましいと思った。おばあちゃんもお母さんもここで生きると言っていて、珠洲が好きなんだなと思った」


2週間の滞在を終え、住民に見送られながらセンターを後にする国永鮎美さん=2月

 ▽ボイラー持ち込み、山水で風呂
 自衛隊の支援を受け、当面の生活物資のめどは立った。ただ、インフラの復旧は見通せない。
 そんな時、県外から1人のボランティアが駆け付けた。長野県佐久穂町の酒井洋さん(44)。大工仕事が得意で、1月中旬からセンターで寝泊まり。断水が続く中、住民や酒井さんは、土砂災害対策から山の斜面から抜いている水に目を付けた。270メートルのホースを使い、センターに引き入れるようにした。さらに、長野から持ち込んだ浴槽やまきで湯を沸かすボイラーを、物置として使っていた部屋に設置。避難者が風呂に入れるようにした。


風呂を準備するボランティアの酒井洋さん。ホースで水を浴槽まで引き込んでいる。高齢の避難者が入りやすいように床に踏み台を置いている=1月

 風呂は毎日午後2時ごろから準備される。入る人の好みに合わせて温度を調整。高齢の避難者に配慮し、ステップも設置した。風呂を利用するため別の避難所から来る人もいたという。水は調理にも使用され、避難所生活の支えになっている。
 酒井さんの励みになっているのが、外出先から戻った際、「おかえり」と声をかけてくれること。「誰かの役に立つことができて、こちらこそありがとうという気持ちです」
 狩野英明さん(52)は、酒井さんに助けられた1人だという。地震発生時、約25キロ離れた能登町にいた狩野さんは、道路の寸断や停電の影響で、珠洲市中心部までしか戻れなかった。


まきで湯を沸かす狩野英明さん(手前)と酒井さん=2月

 両親は自宅のある馬緤町にいる。車いすで生活しているだけに心配だった。「沿岸部は津波で壊滅状態だ」という情報もあり、生存を諦めかけていた。馬緤に戻ろうと何度か車を走らせたが、狩野さんの軽自動車では崩れた峠道を進むのは難しく、そのたびに中心部まで引き返していた。
 車中や親戚宅で数日を過ごした。途方に暮れていたところ、知り合った人に酒井さんを紹介してもらった。酒井さんは、悪路に強い四駆の自動車で来ていた。軽自動車を乗り捨て、酒井さんの車に同乗して7日朝、ようやく馬緤町に帰ることができた。
 両親は無事。自分が不在だった約1週間、地域の人たちが気にかけ、食事の準備などをしてくれていたという。狩野さんは現在、自宅で寝泊まりしながら、日中は防犯担当としてセンターの避難所運営に携わっている。
「特別なスキルはないが、少しでも恩返しになれば」
 センターはその後、市外などの2次避難先から一時帰宅した人の宿泊先にもなった。避難所の枠を超え、地域の拠点になりつつある。日中は仕事に出かける人も多い。
 食事係という南方玲子さん(71)は毎朝、早起きして朝食を準備している。生き生きした様子で話してくれた。「皆さんに喜んで食べてもらえる。夫と2人で暮らしている時よりも忙しいくらい」


センターで食事係を務める南方玲子さん=2月

 ▽「この先も馬緤にいたい」
 地域の立て直しに向け、住民たちは目の前の課題にも一つ一つ取り組んでいる。
 生活を再建するには、まず崩れた瓦や壊れた家具などを片付ける必要がある。しかし、被災した住宅は、手つかずの状態が続いた。理由は珠洲市が指定した災害廃棄物の仮置き場の場所だ。市中心部の漁港などで、馬緤町から行くには、路面状況が悪い峠道を通らなければならなかった。高齢化が進み、個別にゴミを運ぶのは難しく、危険だ。
 小さんらは市に要望を重ね、センター近くの道路脇と駐車場を一時保管場所とする許可を得た。3月中旬以降、休日を中心に、一時帰宅した住民やボランティアが協力して、片付けを進めている。


センター近くの一時保管所に、災害ごみを持ち込むボランティア=3月

 地域の再建は簡単ではない。昨年末の時点で75あった世帯数は、今年3月末時点で約20世帯に減った。3カ月以上がたってもセンターでは十数人が避難生活を送る。ただ、地震前の馬緤町は伝統の祭りなどを通じ、住民同士のつながりが強かった。避難所での共同生活を通じ、小さんは地域の結束力を再認識したと語る。
 「被災で(能登の)限界集落の厳しい状況が進んだ側面はあると思うが、この先も馬緤にいたい気持ちは変わらない。全てを行政に頼るのではなく、できる限り自立したい」

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