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市民権を得たプライドパレード、30年前日本で始めた92歳の男性が心配すること LGBT理解増進法に潜む差別、「大事なのは個々の幸せ」

47NEWS / 2024年6月24日 10時0分

2024年4月21日に行われた「東京レインボープライド」。ピンク色のジャケットを着ているのが、南定四郎さん=東京都渋谷区

 6月は、性的少数者の権利への啓発を促すプライド月間。毎年、世界各地で関連するパレードやイベントが開かれるようになったのは、1969年6月28日にニューヨークで起きた「ストーンウォールの反乱」がきっかけだ。この日、ゲイバー「ストーンウォール・イン」に強制捜査に入った警察と、反発した客らが衝突。翌年6月からデモ行進が行われるようになり、性的少数者の権利拡大を求める運動として広がった。
 日本でパレードがスタートしたのは、1994年。30周年を迎えた今年4月、東京・渋谷で行われた「東京レインボープライド」は過去最大の規模になった。初回のパレードを企画したのは、ゲイ雑誌の編集長などを務めた南定四郎(みなみ・ていしろう)さん(92)。当時を振り返ってもらうと、話題は昨年施行されたLGBT理解増進法へと広がった。南さんは「確かにパレードは拡大したが、性的少数者に対する社会の理解は本当に進んでいるのだろうか」と問いかけた。(共同通信=ダイバーシティ取材班)

 ※筆者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。


自宅で取材を受ける南定四郎さん=2024年6月12日、沖縄県うるま市

 ▽「ばれる前にやめよう」と3年続かない仕事、母の言葉で結婚も
 南さんは1931年、樺太生まれ。5人きょうだいの2番目で、終戦後に母親の郷里の秋田県へと移った。自分が同性に引かれると気が付いたのは、小学生の頃だ。実家が営む商店で住み込みで働いていた少年と相撲をして遊ぶ中で自覚するようになったという。
 高校卒業後は秋田市で地方検察庁に就職し、その後、働きながら大学の夜間部に通うため21歳で上京した。男性と出会える場所があると聞き、東京に行きたいという思いもあった。
 20~30代にかけては、業界紙や演劇関係の出版社、労働組合での仕事を転々とした。
 「仕事は3年と続かなかった。1年目は慣れるのに一生懸命で、2年目になると手を抜くでしょう。そして3年目になると、周囲が自分を同性愛者だと思っているんじゃないかと感じ始めるんです。警戒心があって、飲み会に誘われても行かなかった」
 「ばれる前にやめよう」といつも思い、職場を去った。
 秋田に帰省した時、「いつか孫を抱きたい」と話していた母親の言葉が忘れられず、30代で女性と結婚した。子どもが誕生したが、家庭生活は早くから破綻していた。
 同性愛者であるという後ろめたさから解放されたのは40代になってからだ。1974年、当事者の視点を大事にしたゲイ雑誌「アドン」を創刊した。「誰にも雇われなくなったら不安がなくなった」。カミングアウトしたことはなかったが、雑誌の創刊に合わせて、新聞社から取材を受けたことが事実上のカミングアウトになった。


「第1回レズビアン&ゲイパレード」に参加した南定四郎さん(右)=1994年8月28日、東京・西新宿(退色による色ムラがあります)

 ▽顔が見えない夜の「ちょうちん行列」でエイズ啓発を叫ぶ
 日本で最初のパレードを行う機運はどうやって高まったのだろうか。南さんは1980年代半ば頃から、エイズの予防や啓発などを行う活動をしていた。当時、世界的に広がり始めたエイズは男性の同性愛と結び付けられ、日本社会でも同性愛者やHIV感染者への差別や偏見が広まった。感染していない同性愛者も不安を募らせていた。
 南さんはHIV感染者をサポートするボランティア団体などを立ち上げ、電話で相談に乗ったり、エイズを発症した人の家事を手伝ったりすることもあった。
 その流れの中で始めたのが、夜間の「ちょうちん行列」のアクションだった。数十人がろうそくをともしたちょうちんを手に、新宿から四谷まで歩いた。「エイズは死の病気ではない」「差別をするな」「恐れることはない」などと声を張り上げた。「顔が見えない夜だから、気軽に叫べたんです」
 こうした活動を続けながら、南さんはニューヨークやサンフランシスコのプライドパレードにも足を運んだ。
 「同性愛者であることを家族や友達に話せず、悪いことをしているという意識がいつもあった。それがパレードに参加して歩くと、自分を肯定して、一人前の人間になれた気がしたんです」
 アメリカでのパレードは参加者が踊ったり、パフォーマンスをしたりして明るい空気に包まれていた。そんな様子を目にして「いつか日本でも」と準備を進め、日本初のパレードに結実した。


「第1回レズビアン&ゲイパレード」で存在をアピールする参加者ら=1994年8月28日、東京・西新宿

 ▽「石を投げられるのでは」という不安…手を振ってくれる人を見て堂々と歩いた
 1994年8月28日。この日、パレードのスタート地点となった東京・西新宿の「新宿中央公園」には200~300人の性的少数者の当事者らが集まった。南さんは仲間とともに「第1回レズビアン&ゲイパレード 祝カミングアウト」と書かれた横断幕を手にして歩き始めた。
 当時はカミングアウトすることが今よりももっと難しい時代。パレードを開催するにあたり、参加者からは「沿道から石を投げられるのではないか」という不安の声も上がっていた。パレードの出発前に保険会社が参加者に傷害保険の加入を勧めていたほどだ。
 「中央公園をスタートした時は、悪いことをしているような気がして、何となく下を向いていました。それが新宿駅の南口の当たりから、歩道から手を振ってくれる人が増えて、堂々と歩けるようになりました」
 パレードに飛び入り参加する人も現れ、ゴールの渋谷区の「宮下公園」に到着する頃には千人を超える規模にまで膨らんだ。
 共同通信が保存していた当時の写真を見ると、「私たちは誇りをもって同性愛者として生きる」「わたしはバイセクシュアル」といったプラカードを持つ人々の顔からは笑みがこぼれ、歴史的な一歩を踏み出した熱気が伝わってくる。
 歩き終えた南さんは公園の草むらに寝転がり、後から続いてきた人たちの足元を、安堵と充足した気持ちで眺めたという。


「東京レインボープライド」のパレードスタート前の参加者ら=2024年4月21日、東京都渋谷区

 ▽協賛企業や団体は300超、「性的少数者が無視できない存在に」
 成功に終わった1994年に始まったパレードは、3回目に運営方針などを巡って紛糾し、1997年の4回目には大幅に縮小した。南さんは第一線を退き、以降は実行委員長を変えながら断続的に行われたという。2011年には「東京レインボープライド」が設立された。翌年から毎年開かれるようになり、南さんも数年前から再び参加するようになった。
 1994年のパレードから30年がたった今年は、当事者やサポーター約1万5千人(主催者発表)が行進し、過去最大の規模を達成した。30年前はスポンサーを頼もうとしても、「応援はするけど名前は出さないで。裏側から応援しています」と言ってもらうのが精いっぱいだった。だが今年協賛した企業や団体は300を超えた。南さんは「経済的にも性的少数者が無視できない存在になったということ。大きな意味があると思う」と話す。


パレードする「東京レインボープライド2024」の参加者=2024年4月21日、東京都渋谷区

 ▽「おのおのが求める幸せの形を追求していくことが大事」
 こうした状況を見れば、社会の性的少数者への理解が高まっているように見えるが、楽観視はできないという。
 「差別が地下深くに潜っているように思う。そのうち地震みたいに震動するということが起きるんじゃないかと思うんです」
 その心配の種は昨年6月に成立し、施行された「LGBT理解増進法」だ。性的指向にかかわらず人権を尊重する理念を定められたが、「全ての国民が安心して生活することができるように留意する」という内容が盛り込まれた。
 「これは多数派の権利擁護と言え、ひどい差別がある。それがいつか噴出するのではないか」と危惧する。具体的には、「例えば戦争です。そうなれば、言論を統一しなければならない状況になり、少数派はないがしろにされるでしょう。法律というのは力がある。われわれはどんな時代でも少数派であることに変わりはないですから」
 インタビューの最後に改めてパレードへの思いを聞いた。「パレードに人を集め、大きくすることが目的なのではなく、大事なのは個々の幸せです」と南さんは言葉に力を込めた。同性婚など性的少数者を巡る状況への課題は多く、達成するためには数を力だと考えやすくなるとみる。一方で集団が大きくなれば、その中でまた打ち消されてしまう声があるのではないかとも懸念する。「おのおのが求める幸せの形があるはずです。それを追求していくことこそが大事だと思っています」


「東京レインボープライド」のパレードの様子=2024年4月21日、東京都渋谷区

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