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大相撲の師匠は「おやじ」、背中は永遠 ウルフの迫力と優しさ、猛牛の懐と気遣い…「父の日」を機に思う、師弟の絆の大切さ

47NEWS / 2024年7月3日 10時0分

筋肉質の体で力感あふれる土俵入りを披露する現役時代の先代九重親方(元横綱千代の富士)=1985年1月、東京都墨田区の両国国技館

 長い歴史を誇る大相撲において、弟子を指導する師匠は古くから「おやじ」と呼ばれてきた。相撲部屋という同じ空間で暮らし、日々の稽古で相撲の技術はもちろん、角界のしきたりや礼儀など生活面の全てを教える。まさに父親代わりといえる存在だ。6月16日の「父の日」を機に、親子にも似た師弟関係に思いをはせてみた。(共同通信=田井弘幸)

 ▽横綱が今日あるのは「おやじ」のおかげ

 2024年4月に54歳で亡くなった元横綱曙の曙太郎さんは現役時代、行司の最高位である第28代木村庄之助(本名は後藤悟さん)から大相撲の歴史や土俵入りの意味合い、地位の重みなど、さまざまな薫陶を受けていた。
 そんな“授業”に同席した関係者によると、毎回のように強調されたことは「横綱が今日あるのは『おやじ』のおかげです。おやじが元関脇だろうが、それ以下だろうが、横綱曙の師匠は東関親方なんです」。同じ米ハワイ出身の東関親方(元関脇高見山)の存在を忘れないことと、角界で連綿と続く師弟関係の濃さを説いたという。

 ▽怖い「ウルフ」のさりげない優しさ

 曙さんの訃報による取材の過程で、師匠と弟子の絆の大切さを再認識した。最近は高校や大学から入門する力士が増え、彼らにはアマチュア時代に教わった恩師が複数いる。ただ、いつの時代も大相撲の師匠が特別であることは変わらない。
 元横綱千代の富士の先代九重親方は現役時代に度重なる肩の脱臼を克服し、小さな体によろいのような筋肉をつけて土俵に君臨。史上3位の優勝31度、昭和以降3位の53連勝など輝かしい記録を樹立した。「ウルフ」と呼ばれた愛称そのままに、射抜くような眼光鋭い目つきは恐ろしいほどのすごみにあふれていた。


大相撲夏場所で正面審判長として土俵を見つめる九重親方(元大関千代大海)=2024年5月、両国国技館

 一時代を築いた「小さな大横綱」は厳しい師匠でもあった。16歳で入門した九重親方(元大関千代大海)は「雲の上にいる神様。おやじなんて直接呼んだのは1、2度かな。それも酔っぱらっていた師匠に甘えて冗談で言ったくらい」と回想する。
 九重親方は5歳で父親が他界しており、師匠はまさにおやじ代わりでもあった。自身の結婚披露宴で「私には3人の父親がいます。生まれた時の父、育ての父、そして師匠です」とあいさつしたという。「親方がいないところでは『おやじ』と言っていたかなあ」と懐かしそうに笑う。
 見た目の怖さに隠された気遣いが、弟子の心を捉えて離さなかった。例えば九重親方がけがをした時は一目散に飛んできて「大丈夫だぞ」と慰め、肩の脱臼に耐えた自らの経験を踏まえてアフターケアを重視。「まずはゆっくり休めよ。そこから克服する稽古をしていこう」と言ってくれた。「絶対に怒られると思っていたからうれしかった。医師のどんな処方や薬よりも、師匠の言葉が効いた」と感慨に浸った。
 さりげない優しさもあった。多くの弟子の前で罵声を浴びせたと思ったら、終わった後で個別に呼び「おまえのために言ってるんだよ。分かるか?」と静かな口調でフォロー。報道陣の取材では的外れな質問をした記者に皮肉、時には厳しい指摘も確かに少なくなかった。私は「ウルフ」の迫力と叱責で震え上がったことも何度かあったが、後日に必ず「おまえなあ、あの時はな…」と、なだめてくれた。九重親方が「昔ながらの頑固おやじだよね」と言う通りで、怒られるたびになぜか引き付けられた。


初優勝と大関昇進を決めた弟子の千代大海(左)と乾杯する九重親方(元横綱千代の富士)=1999年1月、東京都墨田区の九重部屋

 そんな師匠が61歳で亡くなったのは16年7月だった。九重親方は約3カ月前の4月29日に誕生日を迎えた際、師匠からお祝いのコチョウランと同時に「しっかり頑張っていこうね」とLINEでメッセージをもらった。だが、いつも文末にある絵文字がなく「今にして思えば、体がしんどかったのかな…」と視線を遠くにさせる。
 最後の思い出は、その頃だった。師弟は2人で北海道から沖縄まで全国各地を回り、後援者にあいさつ。死期を悟っていたのだろうか、師匠は行く先々で「私の次は千代大海です」と告げたという。九重親方は「もう感謝しかない。素晴らしい師匠だった」とつぶやく。今でも月命日の31日には手を合わせ、偉大な背中を思い返している。

 ▽「背中だよ、背中。背中だから」

 40以上を数える相撲部屋の師匠のカラーは十人十色だが、いわゆる「おやじ」のイメージがぴたりと当てはまる一人に境川親方(元小結両国)が挙げられる。1962年7月30日生まれの61歳。押し相撲で鳴らした固太りの丸い体は現役時代をほうふつとさせ、よく通る野太い声を耳にすると、背筋が伸びる。
 稽古場の上がり座敷にどんと座り、眼鏡の奥の鋭い視線を光らせるだけで空気が張り詰める。威厳のある師匠の下で大関豪栄道(現・武隈親方)を筆頭に数々の硬派な力士が生まれている。


弟子の豪栄道(右)の大関昇進伝達式に臨む境川親方(元小結両国)=2014年7月、愛知県扶桑町の境川部屋宿舎

 その親方が没後もなお敬愛するのが、日大から出羽海部屋に入門した当時の師匠だった元横綱佐田の山だ。自身のわずかな陰りを察すると、2場所連続優勝の翌場所にすぱっと引退した。日本相撲協会の境川理事長として90年代後半に着手した年寄名跡改革が頓挫すると、潔く退任。引き際の美学を貫く姿に「筋どころではない。おとこ気に鋼鉄が通っていた」と、かつて評したことがあるほど魅了されていた。
 名跡を受け継いだ境川親方は師匠から何を学んだのか。「背中だよ、背中。背中だから」。簡潔な答えの中に全てが凝縮され、言葉よりも生き方を追いかけたという意味と察する。東京都足立区舎人にある境川部屋の稽古場奥の壁には、17年4月に亡くなった師匠の大きな遺影。弟子を率いる境川親方の後方に位置し、今度は「おやじ」がその背中を見守っている。

 ▽冷や汗から大粒の涙、師匠の気遣い


65歳で日本相撲協会定年を迎え、心境を語る先代佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜)=2005年11月、福岡県内

 大相撲史に残る「おやじ」といえば、先代佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜)だ。24年夏場所に孫の大関琴桜が半世紀ぶりにしこ名を復活させたことで、その存在が再びクローズアップされた。
 一直線の出足と馬力で「猛牛」と異名を取った現役時代の取り口と同じく、真っすぐ前に進む正直な性格が印象的だった。親方になっても変わらぬ太鼓腹は貫禄があり、同時に慕ってくる人を包み込むような懐の大きさも人間味に満ちていた。佐渡ケ嶽部屋の朝稽古に取材へ行くと「おう、いらっしゃい」とほほ笑んだかと思うと、ひとたび土俵に目を向けた後は「この野郎!」。響き渡る弟子への怒声は日常茶飯事だった。07年8月に66歳で急逝する直前まで、稽古場で唯一無二のオーラを放っていた。


元力士で漫画家の琴剣さんが生前に描いた、紋付きはかま姿の先代佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜)

 怖くて、厳しかった先代佐渡ケ嶽親方だが、それを上回る愛情があった。引退後は漫画家として活躍した、弟子で元三段目の琴剣(ことつるぎ)の宮田登さんは21年3月に逝去する直前まで、師匠の話になると目を潤ませることが多かった。
 宮田さんが「思い出すだけで泣けてくる」という逸話がある。98年に千葉県船橋市内でちゃんこ店を開店した直後、師匠が来店してくれた。恥ずかしくないように、とびきりのごちそうで待ち受けた。のれんをくぐった親方は料理をちらっと見ると、すぐに背中を向けて店を出て行った。
 「物足りなかったのかな」と焦る弟子の冷や汗が大粒の涙に変わったのは、次の瞬間だった。師匠は近隣にある一軒一軒の店を手みやげ持参で回り「このたび、私の弟子の琴剣が店を出しました。皆さん、どうかよろしくお願い致します」と頭を下げ続けたという。


元力士で漫画家の琴剣さんが生前に描いた先代佐渡ケ嶽親方(元横綱琴桜)

 この話は師匠の訃報を受け、宮田さんから明かされた。「あの時はもう涙が止まらなくて、止まらなくて…。ここまで弟子を思い、気遣ってくれる親方はいない。最高のおやじです」と声を震わせていた。
 師弟関係は決してきれいごとばかりではない。毎日一緒にいると嫌なことがあれば、感情のもつれもあるだろう。それでも師匠に育ててもらった感謝を弟子が忘れなければ、大相撲の古き良き伝統は紡がれていく。おやじの背中は永遠だ。

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