未曽有の化学テロから30年、今も続く特定人物のつるし上げ 松本サリン事件「犯人視報道」の教訓
47NEWS / 2024年7月14日 10時30分
考えてみてほしい。ある日突然、事件の犯人のように仕立てられ、自分のことが新聞に載ったとしたら。警察に家宅捜索され、喋ってもいないことを報道されたとしたら―。
1994年に発生した「松本サリン事件」で実際に起きた出来事だ。メディアは、第1通報者で当時会社員の被害者、河野義行さん(74)を犯人視する報道を展開した。オウム真理教による化学テロだと分かると、共同通信を含む各社は河野さんへのおわび記事を掲載。事件報道の在り方に重い課題を残した
30年たった今も、新型コロナウイルス感染を巡るSNS上の騒動など、不確実な情報で特定の人物が標的にされる現象は起きている。不安から犯人を捜し出し、つるし上げる集団心理の一つだとも分析される。なぜ、繰り返されるのか。当時の報道を、自省を込めて振り返る。(共同通信長野支局=奈良幸成、富田真子、橋本圭太)
▽松本サリン事件
1994年6月27日夜、長野県松本市の長野地裁松本支部の裁判官宿舎に近い住宅街で、猛毒のサリンが噴霧された。
住民7人が死亡、約600人の重軽症者が出た。河野さんと妻の澄子さんも入院。2008年8月には、意識不明が続いていた澄子さんが亡くなり、犠牲者は8人となった。今も後遺症で苦しむ人たちがいる。
オウム真理教による犯行と分かるのは約1年後だ。発生当初は有毒ガスの正体も分からなかった。
1994年6月、松本サリン事件のあった現場付近。左下の民家が河野義行さん宅、手前右が裁判所職員宿舎=長野県松本市北深志
長野県警は発生翌日、第1通報者の河野さん宅を容疑者不詳のまま殺人容疑で家宅捜索し、「一般の家庭にはない薬品を押収した」と発表した。河野さんが写真の現像などに使っていた青酸系の薬品とみられる。
これを受け、報道各社は河野さんを名指しこそしなかったものの、犯人視報道を始めた。
「会社員が、庭で除草剤を作ろうとして薬品の調合に失敗した」
「会社員が農薬の調合を間違えた」
「関与をほのめかした」
1994年6月の松本サリン事件で、犠牲者を運び出す警察官ら=長野県松本市北深志
▽警察も消防も大混乱
「集団ガス中毒事故と発表され、原因物質も、ガスがどう拡散したのかも、何も分からなかった。警察も消防も大混乱だった。宗教団体の関与を予想できた人はいなかったはずだ」
共同通信長野支局で県警担当キャップとして取材に当たった中嶋一成記者(60)は当時を振り返る。「家宅捜索を機に、警察は河野さんが犯人と思っていると感じた」
1994年6月、松本サリン事件で、魚などが死んでいた池の周辺を調べる長野県警の捜査員ら=長野県松本市
▽間違った情報に安心感
公認心理師で臨床心理士の玉川真里さん(51)=広島県海田町=は指摘する。
公認心理師の玉川真里さん(本人提供)
「人は対処できないことに恐怖を感じる。間違った情報でも、得られたことで安心感を持つ。『自分も被害に遭うかも』との不安が、原因を突き止め、攻撃したい心理につながった」
中嶋記者らは当時、地元住民に河野さんの人柄を取材した。
「普段から暗かった」「何をやっているのか分からない」
こうした返答が、犯人視報道を裏付ける「証言」のように利用された。オウム真理教の関与が明らかになると「犯人が河野さんというのは、おかしいと思っていた」と住民の言葉も変わった。
玉川さんは「曖昧な状態では不安が生じるため、断定して信じたくなる。その人物が怪しいという証拠を話し始める」と説明する。それらしい話を聞くと「承認欲求により、情報発信したくなる」。昨今は、SNSでの急拡散につながる。
「ママが感染させた」。新型コロナウイルスに感染し2020年に病死したタレント志村けんさんを巡り、大阪・北新地の高級クラブで働く女性がネット上で標的となった騒動は、今もなくならない「犯人視」の一例だ。感染させたとの事実無根の情報が拡散し、女性に中傷や脅迫のメッセージが多数送りつけられた。
玉川さんはこう警鐘を鳴らす。「他人の意見に乗っかることは簡単だが、自分で考え行動しなければ、犯人視は常に起こりうる」
▽非公式情報にひきずられ
長野県警の事情聴取を終え、松本署を出る河野義行さんを乗せた車=1994年7月
発生10日目までには、県警が押収した薬品からサリンが生成できないことなどが判明したが、報道の訂正には至らなかった。
翌1995年3月、東京で地下鉄サリン事件が発生。5月、一連の事件でオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚ら教団幹部が逮捕された。6月、県警は河野さんの事件関与を正式に否定。各社がおわび記事を出した。
共同通信は、事件発生から1年に合わせておわび記事を配信した。
「河野さんが毒ガスを発生させたかのような印象を与えたが、誤りだった」
検証記事ではこう総括した。
「河野さん『クロ説』をとる捜査当局の非公式情報に引きずられ、一方的な見方による報道を続けた」
▽負の歴史
長野県松本市の信州大で講義する、松本サリン事件当時テレビ信州の報道部長だった倉田治夫さん=2024年6月27日
多くのメディアにとって、犯人視報道に走った松本サリン事件は「負の歴史」とも言える。長野市のテレビ局の元記者らは「過去に目をつぶるのではなく、学び、語り継いでいくことが大事」と、講演などで反省や教訓を伝えている。
事件当時、テレビ信州の報道部長だった倉田治夫さん(75)は5月、長野市で講演した。
「河野さんは初めから容疑者扱い。被害者だけど疑惑の人になってしまった」
その後、オウム真理教の存在が浮上しても「河野さん“シロ説”をはっきり伝えられなかった」と後悔を口にした。
松本サリン事件を振り返って講演する元信越放送の召田政春さん=2024年6月1日、長野県松本市
信越放送のデスクとして取材を指揮した召田政春さん(73)は、河野さんがメディアに対して容疑を否定し続けたのに「他の可能性が何も浮かばなかった」と、報道を変えられなかったことを悔やむ。講演や、同人誌での連載を通して事件を振り返っている。
▽「加害者扱いされた1年」
犯人視報道された河野義行さんは近年、取材を受けていないが、2010年11月、犯罪被害者週間に合わせ警察庁が開いた講演会で、自身や家族が受けた被害を、以下のように振り返っている。
1994年6月27日の夜、飼っていた犬が泡を吹いて倒れた。妻の澄子も倒れ、救急車を呼ぶうちに自分も意識が遠くなっていった。
長男に「駄目かもしれない。後は頼んだ」と語った。だがメディアは後日、「大きなことになるから覚悟しておけと、長女に語った」と報道した。事実がゆがめられた。
自宅には嫌がらせや無言の電話が次々にかかった。入院中だった私たちに代わり応対したのは、当時高校1年の長男。自宅を出れば張り込んでいた報道陣にフラッシュを浴びせられた。子どもたちの心安らぐ場所があったのか。
警察からは「おまえが犯人だ」と言われ、疑惑が晴れるまで自宅に記者が殺到した。被害者だが、加害者として扱われた。とてもつらい1年だった。
どの新聞も断定はせず、印象を与える記事だった。しかし繰り返されることで、大勢の人が私を犯人だと信じた―。
▽オウムの影は出ていた
1994年7月、松本サリン事件で、サリンが検出された池付近を検証する長野県警の捜査員=長野県松本市
警察は、当初から河野さんだけに容疑者を絞っていたのか。長野県警捜査1課特殊事件捜査係の係長だった上原敬さん(70)に取材した。
発生当日、「食中毒かもしれない」と一報が入った。現場に向かうと、路上にはハンカチで口を押さえる人や座り込む人の姿が。「何があったのか」と松本署員に尋ねても、全く分からない。近くのアパート1室1室に「大丈夫ですか」と声をかけて回った。
発生7日目の7月3日には、捜査1課長が原因物質を「サリンと推定される」と発表。上原さんは「薬品A班」のリーダーに任命され、文献や専門家の意見を参考に、サリンの生成方法を割り出していった。
松本サリン事件でサリンの生成工程や薬品の入手ルートを調べた元長野県警刑事の上原敬さん=2024年6月、長野市
生成に必要な薬品の販売ルートをたどると、オウム真理教のダミー会社が浮上した。県警が発生約1カ月後、退院直後の河野さんを2日間事情聴取する以前に、「オウムの影は出てきていた」と上原さん。「冬ごろには確信を持っていた」
上原さんは「猛毒のサリン。一般家庭では作れないと違和感を持っていた」と振り返る。一方で「県警には河野さんが犯人だと思った人もいたかもしれない」。
薬品捜査がおおむね終わり、刑事らがダミー会社の倉庫に張り込みをしていた1995年3月20日、東京で地下鉄サリン事件が起きた。「やられてしまった」。オウムだと直感した。
オウムの存在はつかめていた。ただ、サリンを生成した人物や噴霧した実行行為者にはたどり着けなかった。上原さんは悔しさをにじませる。
「あともう1歩だったんだ」
▽バケツで作れる
長野県衛生公害研究所’(当時)の研究員だった小沢秀明・信州大特任教授=2024年6月、長野市
化学者たちはどうだったのか。長野県の公害対策部門も、すぐに原因物質の特定作業に取りかかった。
長野県衛生公害研究所(当時)の研究員だった小沢秀明・現信州大特任教授(66)は、発生翌日の6月28日、河野さん宅で池の水を採取した。すぐには原因物質を特定できなかったが、消去法でサリンだと答えを出した。
「なぜ化学兵器のサリンが、日本に」。サリンは一般的な農薬からは生成が難しく、猛毒が発生するため排気装置が必要だ。
だが、「市販の農薬をバケツでかき混ぜれば生成できる」といった専門家のコメントが報道された。小沢さんは振り返る。「当時確かな知識を持っている化学者はほとんどいなかった」
松本サリン事件当時に入手したサリンの文献を読む元国際基督教大教授の田坂興亜さん=2024年6月、東京都多摩市
農薬に詳しい元国際基督教大教授の田坂興亜さん(84)は、報道機関が警察発表に引きずられ、不確かな専門家の見解を報じたと指摘する。
「サリンの生成過程をしっかり理解していれば、誤った情報だと見抜けたはずだ」
▽喪失感
松本サリン事件で亡くなった小林豊さんの写真=2024年6月、静岡県掛川市
遺族はこの30年間、何を感じてきたのか。
事件発生の翌日午前4時過ぎ。静岡県掛川市の小林房枝さん(82)宅の電話が鳴った。
「息子さんが危篤です」
次男の豊さん=当時(23)=は当時、長期出張で松本市に赴任していた。数分後に2度目の電話があった。
「亡くなりました」
その日の夕方、房枝さんは警察署でようやく息子に会うことができた。人懐こくて明るい性格の豊さんは、ひつぎの中で眠ったような顔。涙は出ず、何も考えられなかった。
2018年、教団幹部らの死刑が執行され、喪失感が残った。「死刑になって当然。でも憎むべき標的がいなくなった」
▽未払いの賠償金
次男の豊さんの写真を見つめる小林房枝さん=2024年6月25日、静岡県掛川市
一連の事件の被害者や遺族は教団側に賠償を求めてきた。「オウム真理教犯罪被害者支援機構」によると、房枝さんを含む約1200人が約38億円を請求。これまでに教団の破産手続きと後継2団体の支払いから約19億円の配当があった。
しかし、オウム被害者救済法に基づく国の給付金約8億円を充てても、10億円余りが未払いのままという。房枝さんも全額を受け取れていない。
房枝さんら遺族の代理人伊東良徳弁護士は指摘する。
「教団側は財産を信者名義の口座や金庫に保管していると聞く。現在の法律では特定しきれない」
房枝さんは「泣き寝入りは駄目だ。国が損害賠償を立て替え、加害者側に請求する制度が必要だ」と訴える。
警察庁は今年4月、犯罪被害給付制度の改定案で給付金引き上げを決めたが、立て替え制度の導入は見送った。
今、房枝さんの心には奪われた未来に対する思いが残る。長男の子を見ると想像してしまう。「豊にも、こういう子がいたんじゃないか…」
▽運命の分かれ道
犠牲者が出た寮跡地に設置した献花台に花を供える地元町会の会長ら=2024年6月、長野県松本市
「気が重く足が向かなかったが、30年たって来られた」
今年6月27日、1人が犠牲になった明治生命の会社寮跡地「田町児童遊園」に設けられた献花台に、松本市に暮らす自営業の女性(54)が訪れた。
会社寮で亡くなった榎田哲二さん=当時(45)=の部下だったという。会社の懇親会を途中で切り上げて帰宅した榎田さんが被害に遭った。
「運命の分かれ道だった。なぜ榎田さんだけが…」
献花台は、地元の2町会が今年初めて設置した。3日間の設置期間、引きも切らず多くの人が訪れ、手を合わせた。
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