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「私は白です」乱れる筆致、そして意思疎通はかなわなくなった 無実の訴え届かず死刑確定、袴田さんがつづった数千枚の獄中書簡

47NEWS / 2024年7月24日 10時0分

袴田巌さん

 「僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます」。1966年の静岡県一家4人殺害事件で逮捕、起訴された袴田巌さんは家族に宛て、こう書いた。48年間の拘束期間中、袴田さんが毎日のように書いた手紙やはがきは数千枚に上る。無実の訴えは届かず、死刑が確定。獄中でペン習字を始め、身に着けた端正な筆致は乱れ、内容は支離滅裂に。やがて姉との面会もできなくなった。2014年、裁判をやり直す再審が認められ釈放されたが、長期間の拘束による影響で幻覚や妄想などが生じる〝拘禁症状〟のためいまだ意思疎通は難しい。事件から58年。今年9月、待ち望んだ再審無罪判決が言い渡される見通しだ。冤罪への憤りと死刑執行への恐怖が袴田さんの心身をいかにむしばんだか。肉筆の獄中書簡からたどる。(共同通信=今井咲帆、柳沢希望)


※手紙やはがきの表記は原則原文のまま、一部は共同通信の表記に変更したり、伏せ字にしたりしています。

 ▽強いられた「自白」

 事件が起きたのは、1966年6月30日未明のことだった。静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅が全焼し、焼け跡から刃物で刺された専務(当時41)と妻(同39)、当時17歳と14歳の子どもの遺体が見つかった。約1カ月半後の8月18日、静岡県警はみそ工場に住み込みで働いていた袴田さんを犯人とみて逮捕。袴田さんへの取り調べは猛暑の中で連日長時間続き、過酷を極めた。


プロボクサー時代の袴田巌さん=1961年(無実の死刑囚・袴田巌さんを救う会提供)

 静岡県警の倉庫で見つかった取り調べを録音したテープには、逮捕直後、容疑を否定する袴田さんに、係官が「死んでいった4人に謝ってみろ」「おまえは4人を殺した犯人である」などと繰り返す様子が残っていた。袴田さんの口数が減り、ほとんど無言に。「心を決めて話す気になりなさい」などとたたみかけられた。袴田さんが「小便に行きたいです」と求めたが、取り合ってもらえず、取り調べが続いた。別の係官が「便器もらってきて」と頼み、袴田さんが用を足す音が残っていた。一言も発しない袴田さんに係官2人が「泣きなさい。袴田。そして謝罪をしなさい」と言い立てた翌日、袴田さんは「自白」を始めた。

 1966年11月15日、静岡地裁で開かれた初公判で、袴田さんは自白をひるがえし「私は全然やっておりません」と全面的に起訴内容を否認。家族に宛てた手紙にも、無罪判決獲得への強い意欲を記した。(かっこ内は手紙やはがきの日付)


静岡地裁での公判中の手紙。「僕は犯人ではありません」との記載がある。

「皆様と敢(アワ)無くなって半年、お代りありませんか。私も元気でおります。私のことで親類縁者にまで心配かけてすみません。××味噌の事件には真実関係ありません。私は白です」(1967年1月ごろ)
「私しは裁判所には無罪が解って頂けると信じています。我れ敗くることなし」(静岡地裁の初公判後、時期不明)
「検事は自供調書と言っているが、調書は獄問による物で真実生がありません。検事が言うような、事実はありません。考えて見は、今僕は生死が賭かかって居る訳ですから。真剣に考えて法廷に出たと思う」(静岡地裁の初公判後、時期不明)

 ▽5点の衣類


「5点の衣類」が見つかったみそタンク(山崎俊樹さん提供)

 事件から約1年2カ月後の1967年8月31日、裁判は急展開した。みそ工場にあったみそタンクから、大量の血痕が付着したスポーツシャツやズボン、白色半袖シャツ、ステテコ、ブリーフの「5点の衣類」が見つかった。
 検察は公判開始時、袴田さんがパジャマを着て事件を起こしたと指摘していたが、5点の衣類が犯行の着衣であるとの主張に変えた。それでも、袴田さんの意欲は衰えなかった。

「去る13日に、ご存知の通り急に公判が開らかれた。(略)あの血染の着衣が絶対に僕の物ではないと言う証拠は、ネームがない事です。僕の着衣はクリーニング屋に出すのでハカマタと入っています」(1967年9月ごろ)
「裁判所が事実を見あやまらないかぎり、私は無罪と確信しつつ、七月十八日の判決を待つこの頃」(地裁判決前、時期不明)

 しかし、袴田さんや家族の願いは届かなかった。静岡地裁は1968年9月11日、自白調書45通のうち、任意性を欠いているとして検察官調書1通以外を証拠から排除しながらも、5点の衣類は袴田さんのものだとして、死刑を言い渡した。

「意外ナ判決結果デ事実誤認モ著シイノデ即座ニ控訴致シマシタ」(地裁判決後、時期不明)


地裁判決後、控訴したことを伝える手紙

 ▽両親との死別

 獄中の袴田さんにとって、心の支えは両親やきょうだいの存在だった。

「今朝方母さんの夢を見ました。元気でした。夢のように元気でおられたら私はうれしいがお母さん、遠からず真実を立証して帰りますからね」(1969年10月4日)

 しかし、母親は静岡地裁の死刑判決から約2カ月後に他界していた。父親も1969年春にこの世を去った。


1974年5月10日の手紙。母からの便りが途絶え、衝撃を受けたと記されている。

「私の拘留中昭和四十三年(1968年)母からの便りが突然途絶えた。私は、この時自分の人生で最も悲しい時が迫るを感じ体中一気に凍るような衝撃を受けた。(略)真実は誰にも否むことは出来ないのである。原審の誤った裁判が私の両親の生命を奪い且、その死水をも私に取らせなかったのだ。この時から私の生を支えるものは憎悪に成ったのだ」(1974年5月10日)

 前向きな言葉を重ねてきた袴田さんの書簡に、次第に捜査機関や司法制度への強い怒りがつづられるようになる。

「取調べ当時、私の健康状態は極めて悪く、この状態をして、へいきで法を犯す捜査陣の中にあっては、私自身の生命をも守ることが困難であったのだ。(略)私は天地神明に誓って本件の真犯人ではない。(略)法を犯した捜査陣は、当審で全敗するだろう。万一敗訴。私の脳裏にはすぐさま生と死への二つの姿が浮かび上がり、ごく短い時間の間を私は私なりに苦しく、切なく思いなやむのである」(1975年12月15日)

 ▽悪魔の手先が電波を…

 1969年5月、東京高裁で始まった控訴審では、5点の衣類のうち、ズボンが袴田さんには小さく、はけないことが判明した。袴田さんの弁護団らは、5点の衣類は捏造された証拠だと訴えたが、1976年5月18日、高裁は袴田さんの控訴を棄却。その後、最高裁も高裁の判断を支持し、1980年12月に死刑が確定した。1980年代後半の書簡には、意味の通らない内容が見られるようになり、獄中で始めたペン習字で鍛えた美しい字も乱れていった。


1989年1月5日の手紙。「悪魔の手先」「電波」といった意味不明な表現がある。

「悪魔の手先は本日一日、左耳と左手に集中的に電波を当てて文章活動の妨害を図っている」(1989年1月5日)

 この手紙を出してすぐ、同じ静岡県で1954年に6歳女児が殺害された「島田事件」で死刑が確定した赤堀政夫さんが、再審無罪を勝ち取った。この朗報は袴田さんの耳にも入った。

「島田事件の再審無罪は全国民にとって予想されていたことですが、イザ無罪判決が大々的に報道されてみますと、誤判の長すぎた現実に愕然とさせられると同時に怒りを禁じ得ません」(1989年2月2日)

 袴田さんの弁護団も裁判やり直しを求め、再審を請求したが、うまくいかない日々が続いた。1991年を過ぎ、袴田さんからの発信は次第に途絶えがちになり、拘置所での食事や入浴、姉ひで子さんとの面会を拒否するようになった。家族は時折届く意味の通らないはがきを頼りに、袴田さんを案じるほかなかった。

 ▽釈放も戻らぬ心、忍び寄る衰え


再審開始決定が出され、東京拘置所を出る袴田巌さん。右は姉のひで子さん=2014年3月27日、東京・小菅

 2014年3月14日、2度目の再審請求で、静岡地裁は再審開始を認め、袴田さんの釈放を決めた。袴田さんは長年過ごした東京拘置所を出たが、「裁判は終わった」「袴田巌はもういない」などと口にし、意味のあるやりとりは難しくなっていた。ひで子さんと浜松市で同居を始めたものの、長年の拘置所生活の影響か、電気をつけたままでなければ寝られず、家中を歩き回った。支援者とともに散歩するなどして、ゆっくりと回復しているが、近年は高齢に伴う体力の衰えも目立つ。
 検察側の不服申し立てにより、裁判やり直しは10年近くずれ込み、2023年10月27日、ようやく再審公判が始まった。拘禁症状が残る袴田さんの出廷は免除され、ひで子さんが補佐人として代わりに法廷に赴いた。検察側はなお有罪を主張し、死刑を求刑。今年5月22日の結審の日、証言台に立ったひで子さんは、死刑確定後に袴田さんが息子に宛てて書いた手紙を読み上げた。

「息子よ、お前はまだ小さい。判ってくれるかチャンの気持ちを。もちろんわかりはしないだろう。判からないと知りつつ声の限りに叫びたい衝動に駆られてならない。そして、胸いっぱいになった、真の怒りをぶちまけたい。チャンが悪い警察官に狙われて逮捕された。昭和41年8月18日その時刻は、夜明けであった。お前はお婆さんに見守られて眠っていたはずだ」(1982年11月28日)
 そして、続けた。
「釈放されて、10年たちますが、いまだ拘禁症の後遺症といいますか、妄想の世界におり、特に男性への警戒心が強く、男性の訪問には動揺します。玄関の鍵、小窓の鍵など知らないうちにかけてあります。就寝時には電気をつけたままでないと寝られません。釈放後、多少は回復していると思いますが、心は癒えておりません。(略)58年闘ってまいりました。私も91歳でございます、巌は88歳でございます。余命いくばくもない人生かと思いますが、弟・巌を人間らしく過ごさせてくださいますようお願い申し上げます」


袴田巌さんが書いた獄中書簡を読み返す姉ひで子さん=5月、浜松市

 袴田さんが獄中にいる間にやりとりした手紙やはがきを今も大切に保管し、内容を「全て記憶している」というひで子さん。結審後取材に応じ、最終意見陳述で「巌が家族へ宛てた思いを裁判官に伝えたかった」と明かした。袴田さんと家族が待ち望んだ再審判決は9月26日午後2時、静岡地裁で言い渡される。「焦っても仕方ない。ただ待つのみ」。ひで子さんは穏やかな表情で話した。


取材に応じる袴田巌さんの姉ひで子さん=5月、浜松市

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