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軍事施設だった甲子園、貴重写真で明らかになった「空白期」の姿 「野球の聖地」の別の顔、アメリカ人写真家が神戸市文書館に寄贈

47NEWS / 2024年8月7日 10時30分

占領下の時期に米兵が撮影したとみられる甲子園球場の写真(神戸市文書館提供)

 8月1日に開場100年を迎えた甲子園球場(兵庫県西宮市)には、軍事施設だった歴史がある。太平洋戦争中の1944年から終戦までは日本軍が、1945年10月から1954年までは米軍が利用していた。軍需工場や兵舎などになっており、米軍接収中は、「JPNR4103」という“別名”も付けられていた。

 甲子園は高校野球やプロ野球阪神タイガースの本拠地として、今では「野球の聖地」というイメージが浸透している。しかし、今年新たに米国経由で見つかった写真や、当時の球場関係者の著書などをひもとくと、今とは全く違う甲子園の顔が浮かび上がってくる。(共同通信=西村曜)


甲子園球場=2023年8月

 ▽「スポーツの聖地」
 1924年開場の甲子園は「国内最古の本格的な野球場」とされる。約1・5キロ南にあった鳴尾球場で開かれていた全国中等学校優勝野球大会(現在の「夏の甲子園」、正式名称は全国高等学校野球選手権大会)の人気が高まり、観客がグラウンドにあふれ出る事態も発生。より収容人数の大きな球場が求められていた。

 そうした中、5万人超を収容できる巨大球場の建設を決めたのは阪神電気鉄道の三崎省三元専務(1867~1929年)だった。

 明治時代に米国留学の経験があった三崎氏は当時、欧米人との体格差を痛感し、スポーツを通じて日本人の体格を向上させようと考えていた。現在甲子園がある一帯に陸上競技場や競泳用プール、テニスコートなどを整備し、スポーツの聖地となった。

 ▽焼夷弾で「一面火の海」
 阪神電鉄の社史によると、甲子園に軍隊がやって来たのは1944年春。日本軍の輸送部隊の隊員数十人が常駐した。

 観客席の下には軍需工場が入り、三塁側アルプス席の下にあった温水プールは潜水艦ソナーを研究する施設として使用された。グラウンドも、食料不足を補うための芋畑と軍用トラック置き場となった。中等学校優勝野球大会は1941年から中断。グラウンドの芝生は、木炭を使っていた軍用トラックからこぼれた炭で枯れ、わだちができた。


甲子園歴史館に展示されている、弾痕が残された鉄扉=兵庫県西宮市

 広島に原爆が落とされたのと同じ1945年8月6日には空襲にも見舞われた。グラウンドには数千個の焼夷弾が突き刺さり、一塁側アルプス席周辺が大規模に燃えた。後に球場長を務めた川口永吉氏は著書「甲子園とともに」の中で、「球場全体が一面火の海となった。ものすごい炎が飛び出しスタンドは穴だらけ、火は延々三日間も燃え続け手もつけられぬ惨状となった」と書いている。

 ▽JPNR4103
 終戦後の1945年10月、日本軍に代わり今度は米軍が「甲子園のあるじ」となった。

 当時、球場2階の廊下には折りたたみベッドが並べられ宿舎として使われていた。貴賓室は司令官が使用し、食堂は酒場に変わった。甲子園には米兵が2千人ほどもいたという。

 米軍はグラウンドや観客席下にあったプールや体育館を利用して体育学校も作った。日本各地に駐留する米兵の体育指導をする指導員を養成する学校で、野球やボクシング、競泳などを行っていたという。

 米軍が日本国内で接収した不動産には管理用番号があった。国立公文書館が運営するインターネットサイト「アジア歴史資料センター」には日米で接収物件についてやりとりした資料が残る。「調達要求書及契約書」という資料によると、甲子園の番号は「JPNR4103」だった。

 甲子園の歴史を研究する武庫川女子大の丸山健夫名誉教授は当時の甲子園一帯について「日本人は簡単に近づけなかった」と語る。付近にあった兵庫県鳴尾村(現西宮市)の村史にも「(甲子園キャンプでは)施設の周囲が鉄条網で囲まれ、銃を持った兵士が警護する」との記録が残る。

 そのためこの時代の甲子園を写した写真は日本にほとんどなく、甲子園を運営する阪神電鉄も所蔵していない。


 ▽「空白期」の写真
 そんないわば「甲子園の空白期」と言える写真が今年4月、米国から神戸市文書館に寄贈された。接収初期に撮られたとみられる9枚の未公開写真。甲子園に隣接する甲子園歴史館(兵庫県西宮市)の担当者も「見たことがない写真で貴重。野球だけにとどまらない近代史の史料」と驚いた。


甲子園球場が終戦後、GHQに占領されていた時期とみられる未公開写真9枚が見つかった。球場外で撮影された1枚では、兵士の後方に「KOSHIEN STADIUM」と書かれた看板が写っている(神戸市文書館提供)

 米兵撮影とみられる写真には、今と同じツタに覆われた球場が写る。だが外壁には「KOSHIEN STADIUM」と英語の看板が掛かっている。1934年から1983年まで使われた今よりも背の低いバックスクリーンも写る。

 寄贈したのは米国の写真家で、知人から譲り受けたものという。撮影者ははっきりしないが、バックスクリーンに「S(ストライク)B(ボール)O(アウト)」とのアルファベット表記があることなどから、丸山名誉教授は1947年3月ごろの撮影と推定している。


甲子園球場外で撮影された兵士の写真(神戸市文書館提供)

 9枚のうち1枚が球場内のバックススクリーンで、残りは全て球場外周で撮られている。いずれも米兵が写り込んでおり、みな笑みを浮かべるなどリラックスした表情だ。


甲子園球場外で、笑顔で肩を組む兵士2人組の写真。左後ろの柱には英語の交通標識や「近寄ルベカラズ」と書かれた看板が写る(神戸市文書館提供)

 車の制限速度をマイルで示した交通標識や、日本語で「此ノ付近ニ日本婦女子近寄ルベカラズ」との看板が写っていた。占領下だった当時の様子がうかがえる。

 ▽戻った球音
 戦後、甲子園での中等学校野球(現在の高校野球)は大会関係者による米軍側への度重なる陳情で1947年3月に復活した。グラウンドと観客席のみ接収を解除するいびつな形だったが、甲子園に球音が戻った。米軍による甲子園の接収が完全に終わったのは1954年3月。それまでは接収が続く中で大会が開かれていた。

 その後甲子園は再び「野球の聖地」として歩み始める。高校野球では「KKコンビ」「平成の怪物」「決勝再試合」など数々のスター選手や名場面も生まれた。プロ野球でも藤村富美男、江夏豊、掛布雅之、新庄剛志らの阪神勢に、巨人の長嶋茂雄や王貞治ら名選手が躍動した。


2006年8月、全国高校野球選手権大会の駒大苫小牧―早実戦で延長15回を引き分け、再試合となった両校ナイン=甲子園球場

 野球だけにとどまらず、アメリカンフットボールの大学日本一を決める「甲子園ボウル」や、地元の西宮市の小中学生が運動会をしたり、成人式を開いたりする場にもなっている。「ドカベン」「タッチ」など大人気漫画の舞台としても描かれ、高校野球の応援をするブラスバンドが注目を浴びることもある。
 幸い、現在まで再び軍事施設になったことはない。


甲子園球場外で、笑顔で肩を組む兵士2人組の写真。左後ろの柱には英語の交通標識や「近寄ルベカラズ」と書かれた看板が写る(神戸市文書館提供)

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