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腹痛で作業を休んだ自分は生き残り、同級生は全員亡くなった 被爆60年経て決意「伝えなくては」。親友の遺品を前に、広島で語り続ける

47NEWS / 2024年8月12日 10時0分

広島市の平和記念公園にある原爆資料館

 

 今から79年前の1945年8月6日、アメリカ軍が広島市に原子爆弾を投下した。推計では45年末までに約14万人が亡くなり、放射線による被害は広範囲、長期間に及ぶ。
 広島市の原爆資料館はその10年後、1955年に開館した。今では週末ともなると外国人観光客のグループや修学旅行生らで長蛇の列ができ、2023年度の入館者は200万人弱と過去最多になった。
 原爆の熱線で、その場にいた人の姿が影のように黒く残ったとされる「人影の石」の周辺など、近づけないほど混み合う展示も多い。資料館の収蔵品は約10万点。その中から2つの遺品と、それにまつわる話を紹介したい。それぞれの持ち主は12歳の少年と、3歳の男の子だ。(共同通信=小作真世、玉井晃平、年齢は取材当時)

※記者が音声でも解説しています。「共同通信Podcast」でお聴きください。

 ▽亡くなった親友の母は言った「何で生きているの」


原爆資料館に展示されている、中学生の遺品を身に付けたマネキン=広島市

 展示室に1体のマネキンがある。帽子、学生服、ゲートル、ベルトを身に着け、原爆で犠牲になった少年を思い起こさせる。
 これらの持ち主は1人ではない。空襲による延焼を防ぐため建物を取り壊す「建物疎開」の作業中に、被爆し命を落とした中学生3人分を合わせたものだ。
 このうちゲートルの持ち主だったのは、当時12歳の上田正之さん。上田さんの同級生で親友、そして自らも被爆者の中村富洋さん(91)は、人知れず深い悲しみを抱えてきた。 「もし彼が生きていたら」。今も心の中には、未来ある少年のままの「上田君」がいる。
 原爆投下の朝、いつものように迎えに来た上田さんを、中村さんは腹痛で作業を休むと伝え見送った。
 約40分後、すさまじい爆発音と閃光に襲われ、家が崩れ落ちた。中村さんはがれきの中からはい出し、火の手から逃げ惑った。
 「本当の地獄。死ぬまで頭から消えない」。上田さんと遊んだ川は、瞬く間に死体であふれた。
 2日後、たまたま出会った上田さんの母親にかけられた言葉に絶句した。「何で生きているの」。作業場にいた同級生らは全滅だった。「一緒に死ねばよかった」と自分を責めた。
 戦後は原爆の話を避け、仕事に心血を注いだ。だが、生き残った後ろめたさは拭えず、惨状の記憶は消えなかった。
 被爆60年を迎えた頃、心境に変化があった。被爆体験の風化が叫ばれる中、「生かされた自分が伝えなくては」と修学旅行生らに体験を語り、上田さんの遺品がある資料館の案内を始めた。


上田正之さんと遊んだ川の近くで思い出を語る中村富洋さん=2023年12月26日、広島市

 中村さんは証言のたびに「資料館を見て」と伝えてきた。「核兵器の非人道性や悲惨さを肌で感じてほしい」と願っている。

 ▽伝えたい祖父と、思い出したくない祖母。2人の思いを伝えるため語り部に


原爆資料館に展示されている「伸ちゃんの三輪車」。写真右が鉄谷伸一ちゃん=広島市

 マネキンと同じフロアに、さび付いた三輪車が展示されている。
 三輪車で遊んでいた時に被爆し、3歳で亡くなった鉄谷伸一ちゃんのものだ。
 伸一ちゃんの父親の鉄谷信男さん(1998年に88歳で死去)は、3人の子供を原爆で失った。長男だった伸一ちゃんの遺体は火葬せず、お気に入りの三輪車と一緒に庭に埋葬した。
 1985年、鉄谷さんは親戚を集め、遺骨を掘り起こした。その場には、当時4歳だった鉄谷さんの孫、小西佳子さん(42)もいた。小さな頭蓋骨が、木の根っこに守られるように埋まっていた。まるで「天国の枕」のように見えたのを覚えている。
 見つかった「伸ちゃんの三輪車」は後に資料館に寄贈され、広く知られるようになった。寄贈した鉄谷さんも体験を語り続けた。小西さんは、涙を流しながら語る祖父の姿を思い出す。その横で、祖母は決まって不機嫌そうだった。
 小西さんが対照的な2人の思いを理解したのは、自身も3人の子を授かってからだ。「伝えたい気持ちも、思い出したくもない気持ちも今なら分かる」


「原爆語り部の会」で、被爆した祖父母の話をする小西佳子さん=2024年1月6日、広島市

 小西さんは昨年、祖父母から受け取った平和への願いを伝えようと「語り部」活動を始めた。資料館に残る三輪車だけでなく、祖父母の思いも次の世代に届けたい―。知人の槙野未来さん(42)と平和活動のグループを立ち上げた。思い描くのは、子供と親が一緒に平和について考える場だ。「堅苦しくせず、私たちのやり方で命の大切さを伝えたい」と活動の形を模索している。

 ▽200万人に迫る入館者、混雑対策の取り組み

 原爆資料館の2023年度の入館者数は198万1782人で、これまでの最多だった19年度の175万8746人を超えた。
 うち外国人は約67万人で3割以上を占める。新型コロナウイルス禍での水際対策が緩和されたことや、昨年5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)で首脳らが訪れ、資料館に注目が集まったことが背景にあるとみられる。


 多くの見学者が被爆の悲惨さに触れる一方、展示が見えにくいほどの混雑も起きていて、昨年8月には入館に最大2時間待ちの行列ができるなど問題が表面化した。
 対策に乗り出した広島市は3月1日から開館時間の延長やオンラインで予約を受け付ける取り組みを始めた。延長した時間帯は予約限定で、開館を通常の午前8時半から午前7時半に早め、閉館を1時間遅らせる。
 対策後の平日朝、開館時間を早めた時間帯には行列はなく、国内外の見学者が並ぶことなくスムーズに見て回っていた。予約して午前8時ごろに来館した札幌市の会社員の女性(48)は「すいていてゆっくり見ることができた。原爆の恐ろしさがよく分かった」と話した。

 ▽被爆者の話を直接聞けない時代に、何が起こったかを伝えるには


広島市の原爆資料館(奥)。手前は原爆ドーム

 資料館は1955年の開館以来、被爆の実相を伝える遺品や被爆者の証言などを収集してきた。
 学芸員の小山亮さん(43)は取り組みの重要性をこう強調する。「被爆者の話を直接聞けない時代に、原爆投下で何が起こったかを伝えるためには1次資料が最も大切だ。被爆から100年たっても、その先の時代も多くの人に展示品を見てもらえるように、適切な保存のための取り組みを続ける」

 【原爆資料館】 爆心地に近い広島市中区の平和記念公園内にあり、正式名称は広島平和記念資料館。世界的建築家の故丹下健三氏が設計し、被爆10年後の1955年に開館した。
 壊滅した市街地の写真や犠牲者の遺品などで惨状を伝える本館と、核兵器の危険性や広島の歴史を説明し、被爆者の証言ビデオを視聴できる東館で構成する。昨年5月のG7広島サミットでは、バイデン米大統領や、ウクライナのゼレンスキー大統領らが視察した。
 もう一つの被爆地、長崎市にも原爆資料館がある。

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