航空史上最悪の事故から39年、人生を変えられた遺族の思いを聞いた 520人犠牲の日航機墜落、御巣鷹「慰霊登山」に同行して
47NEWS / 2024年8月31日 10時30分
そこだけU字型に切り取られたような稜線が、朝から晴れ渡った青空に縁取られている。39年前の8月12日、日航ジャンボ機が墜落する直前に主翼で削り取った場所だ。
U字型に切り取られた稜線=2024年8月
今年の8月12日も、墜落現場となった群馬県上野村の「御巣鷹(おすたか)の尾根」に、遺族たちが慰霊のため登山した。急斜面を一歩一歩踏みしめ、あちこちに点在する墓標に亡き人への尽きない思いを伝えた。
日差しの中、時折休みながら歩を進めたのは、大阪府箕面市から訪れた柴田百合子さん(87)。当時21歳だった娘の滝井千合子さんを事故で失った。「娘は今もここにいると思い、毎年来ている」と語った。
乗客乗員524人のうち520人の犠牲者数は、世界で現在も単独事故として航空史上最悪だ。毎年続く慰霊登山には、日航社長らも参加する。しかし、航空事故は繰り返されている。慰霊登山を中心に、関係者の心中を聞いた。(共同通信前橋支局)
▽墜落事故
日航ジャンボ機墜落の現場=1985年8月、群馬県上野村
1985年8月12日午後6時56分、羽田発大阪行き日航123便のジャンボ機・ボーイング747が、レーダーから消えた。
見つかったのは埼玉県と長野県の県境に近い、登山道もない標高約1540メートルの山中。機体はバラバラになっていた。
後に現場は「御巣鷹の尾根」と名付けられた。
1987年、当時の運輸省航空事故調査委員会は、米ボーイング社による機体後部圧力隔壁の修理ミスがあり、日航や運輸省の担当者が見逃したのが原因と結論付けた。
群馬県警は業務上過失致死傷容疑で関係者20人を書類送検したが、その後、全員不起訴となった。
▽事故現場
現在は、急斜面に階段が続く登山道が整備されている。道沿いには木や石でできた犠牲者の墓標が並ぶ。それぞれの遺体が見つかった場所だ。酒瓶や写真、花束が置かれている。
炎上した機体後部が崩れ落ちた場所には「スゲノ沢」が流れる。多くの犠牲者と生存者4人が見つかったこの付近では、有志らが設置した小さな風車が、カラカラと回っていた。
登山口から30分ほど歩くと、中腹の墜落地点に「昇魂之碑」が現れる。碑前には空の安全を祈る鐘が設置され、犠牲者の名を刻んだ石碑もある。
▽昨日のことのよう
「昇魂之碑」の前でシャボン玉を飛ばす人たち=2024年8月12日
事故から39年となった今年8月12日の早朝、慰霊登山が始まった。日航によると、68家族の230人が登った。強い日差しが照りつける中、息を切らし、噴き出す汗を拭きながら歩く。
それぞれの墓標や昇魂之碑に着くと、手を合わせ、思い思いの言葉をかけていた。
酒好きだった父・義員さん=当時(58)=を亡くした兵庫県西宮市の自営業小西正明さん(69)は、墓標に日本酒を注ぎ、「来年も来るぞ」と語りかけた。好きなマージャンは父が教えてくれた。「今でも、つい昨日のことのように感じる」
事故で亡くなった次男の墓標に手を合わせる「8・12連絡会」事務局長の美谷島邦子さん(右から2人目)ら=2024年8月12日、群馬県上野村
遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長を務める美谷島(みやじま)邦子さん(77)は次男健君=当時(9)=を亡くした。健君の墓標の周りには、好きだったドラえもんの人形やミニカーが並ぶ。
高齢化により、山を訪れる遺族は少なくなっている。美谷島さんはこう語る。「えぐれた山肌を埋めるように毎年歩いてきた。次世代に事故を伝える責務を果たしたい」
普段は電波が通じにくい山中でも通信できるよう、KDDI(au)が臨時基地局を設置。高齢で登山できない遺族にテレビ電話する人もいた。
▽世代を超えて
慰霊登山する小林隼也さん
21歳で亡くなった加藤博幸さんの甥・小林隼也さん(34)=東京都=は、博幸さんの父で小林さんの祖父・加藤留男さんが慰霊登山に使っていたリュックを担ぎ、登った。留男さんは2002年に69歳で亡くなった。「祖父も一緒に叔父に会いに来たと思う」
小林さんは事故後に生まれ、叔父に会ったことはない。「同世代の人に事故について知ってもらうためにも毎年登りたい」
慰霊登山が終わり、夕方には麓の「慰霊の園」で、せみ時雨の中、追悼慰霊式が開かれた。犠牲者数と同じ520本のろうそくに火をともし、発生時刻の午後6時56分に合わせ、黙とうした。
「慰霊の園」でろうそくの火を見つめる遺族ら=2024年8月12日、群馬県上野村
式には、事故当時を知らない世代の村職員も携わる。妹一家を亡くした奈良県御所市の田仲威幸さん(74)は「世代を超え、引き継いでくれてうれしい」と感謝していた。
▽「安全に妥協許されない」
今年1月に羽田空港で日航機と海上保安庁の航空機が衝突し、海保機の5人が犠牲となった事故に心を痛める声も聞かれた。1985年の墜落事故で当時32歳の山口静子さんら姉一家4人を亡くした、横浜市の宮坂幸子さん(67)は、厳しい言葉を投げかける。「我がことのように胸に来る。安全を忘れているのではないか」
慰霊登山に訪れた日航の鳥取三津子社長=2024年8月12日、群馬県上野村
日航の鳥取三津子社長にとって、社長就任後初めての8月12日当日の慰霊登山となった。追悼慰霊式に出席した後、記者団の取材にこう決意を述べた。
「安全には少しの妥協も許されないと改めて感じ、社長としての原点が8月12日だと自分に言い聞かせた。異変に気付ける感度を持って臨みたい」
▽繰り返すトラブル
日航では昨秋以降、アメリカで滑走路誤進入や機長の飲酒トラブルがあったほか、福岡空港で許可なく滑走路手前の停止線を越えたり、羽田空港で日航機同士が接触したりと、国内でも安全運航に関わる事案が相次いでいる。
これらの再発防止に向けた取り組みをまとめ、6月、国土交通省に提出した。
社員らは39年前の事故をどう引き継ごうとしているのか。若手社員は今年6月、安全への意識を見つめ直そうと、「8・12連絡会」の事務局長・美谷島邦子さんを社内に招き、講演会を開いた。
東京都品川区の日航本社で業務に当たる谷内友理香さん=2024年8月8日
約100人が参加し、遺族の悲しみや安全への思いを改めて実感した。企画者の一人、谷内友理香さん(29)は「一便一便、お客さまの命と人生を預かっていると一層肝に銘じた」と語る。
運航を管理するオペレーション本部の谷内さんと関根美賀子さん(30)、安立里菜さん(29)が、安全の観点から業務について話し合う場で発案した。6月13日、運航だけでなく、マイレージサービスなどさまざまな部署からオンラインも含め参加があった。
▽加害者の私たちに
東京都品川区の日航本社で取材に応じる(左から)関根美賀子さん、安立里菜さん、谷内友理香さん=2024年7月
関根さんは、1月に羽田空港で起きた海上保安庁機との衝突事故の対応を経験した。事故やトラブルの兆候に関し「安全でないものは目に見える」と戒める美谷島さんの言葉が印象に残ったという。
3人の普段の業務は飛行計画の作成やフライトの監視、支援などで、1人で複数便に対応することもある。関根さんは、美谷島さんの話を聞いて「不安に思ったら立ち止まり周囲に相談しよう」とあらためて感じた。
日航は、研修などでジャンボ機墜落の教訓継承を進めているが、講演会を企画した3人が遺族の話をじかに聞くのは初めてだった。安立さんは自身の責任の重さを再確認した。「加害者でもある私たちに話してくれた。飛行機が飛び続ける限り、安全を考え続け、築いていかなければならない」
墜落事故から39年となるのを前に報道陣の取材に応じる美谷島邦子さん=2024年8月11日、群馬県上野村
美谷島さんは語る。
「基本に戻って日々努力を続けることが安全につながる。今まで以上に事故を風化させないよう取り組んでもらいたい」
▽それぞれの人生
兄潤一さんの墓標に手を合わせる浅野敏行さん=2024年8月3日、群馬県上野村
事故によって遺族は人生を大きく変えられた。兵庫県宝塚市の浅野敏行さん(69)もその1人。36歳だった兄の潤一さんを亡くし、銀行を退職して兄の代わりに家業を継いだ。
「犠牲となった520人それぞれに人生があり、遺族がいる」
敏行さんに、兄の潤一さんについて聞いた。
潤一さんは、大学では陸上競技に打ち込むスポーツマンだった。創業1907年、大阪市の老舗木材商社「アサノ」を父から継ぐ予定で、卒業後は商社に就職し数年間修業。アサノに入社すると、インドネシアで木材の仕入れを担当するなど重要な仕事を任された。
「家業を継ぐつもりは全くなかった」という弟の敏行さんは、銀行に就職。1984年には、勤め先の研修制度でアメリカ・シカゴの経営大学院へ留学した。渡米前、兄が東京まで見送りに来てくれた。「それが兄貴を見た最後だった」
▽目の前が真っ暗に
1985年の事故直後、一報は、父からの国際電話だった。
「兄さん(潤一さん)が乗っていた飛行機が行方不明になった」
目の前が真っ暗になり、その場にしゃがみこんだ。その後の記憶が定かでない。すぐに帰国し、家族とともに東京からタクシーで現場の群馬に急いだ。
遺体が次々と運び込まれる学校の体育館に、敏行さんは何度も何日も通った。
「希望を持てないと頭では分かっていたが、何とか生きていてほしいと願い続けた」
兄の遺体は、ばらばらの状態で見つかった。
ぼうぜんとしたまま大阪に戻った。伊丹空港には父の知人らが待っていて、父の肩をたたいた。「厳格だった父の涙を初めて見た瞬間だった」。家業を継いで家族を支えようと覚悟した。
▽兄貴に代わり
日航機墜落事故で亡くなった兄の潤一さんの肖像画と浅野敏行さん=2024年6月、大阪市
翌年に留学を終え、1988年に銀行を辞めてアサノに入社。それまでと全く異なる業界で、一から木材のことを学ぶ時間もないまま、経営全般を任された。
社長就任後は、社員らの支えもあってバブル崩壊などの苦境を乗り越えてきた。職場では、兄の肖像画も見守ってくれる。
今年は一足早く、8月3日に尾根を登り、兄の墓標に花を手向け、手を合わせた。
「いつも見守ってくれてありがとう。兄貴に代わり、継いだ会社を守ります」
(取材・執筆=前橋支局・重冨文紀、國近賢宏、赤坂知美、勝田涼斗、社会部・塚本友里江、写真部・横山純太郎)
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