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「合唱のような不気味な汽笛が響いた」。さぶちゃんの同級生が記憶する洞爺丸沈没の夜 翌朝、高校の屋上から見た光景は…

47NEWS / 2024年9月25日 10時0分

遭難した洞爺丸

 北海道函館湾内で乗客乗員計1155人の命が奪われた、国内最悪の海難事故の旧国鉄青函連絡船「洞爺丸」沈没から9月26日で70年。約1500人が犠牲になった英国の豪華客船「タイタニック号」沈没事故(1912年)に匹敵する大惨事だった。洞爺丸沈没当時、函館市の高校生だった山岸光生(やまぎし・みつお)さん(88)=札幌市在住=はあの夜、不気味な音を聞いていたという。不安な夜が明け、見た光景は―。今回、初めてマスコミの取材に応じ、当時の出来事と洞爺丸への思いを語った。(共同通信=志田勉)

 ▽九州に上陸後、北海道へ


現在の七重浜。当時、多数の遺体が流れ着いた=2024年8月

 洞爺丸沈没事故とは、どのようなものだったのだろうか。1954年9月、九州南端に上陸した台風15号は26日夜半、北海道南部を襲った。函館から津軽海峡を渡り青森に向かう予定の洞爺丸は台風接近で出航を見合わせた。だが午後6時半すぎ、船長の判断で出航。未曽有の受難の始まりだった。


 折からの猛烈な風と大波に襲われ、出航後に間もなく航行不能になる。函館湾七重浜沖合で約4時間後に転覆・沈没した。全国各地で被害をもたらした台風は「洞爺丸台風」と命名された。

 ▽「海峡の女王」とボートで並走


取材に応じる山岸光生さん=2024年7月

 沈没事故が起きた年、山岸さんは函館西高校の3年生だった。同級生には、後に演歌界のスターとなる「さぶちゃん」こと北島三郎(きたじま・さぶろう)さんがいた。「休み時間の鼻歌で教室がシーンと静まりかえるほどうまかった」。


函館市の高台にある函館西高校=2024年8月

 山岸さんはボート部でキャプテン。4人こぎの「ナックルフォア」で、全体のリズムをとる「ストローク」を担当した。
 放課後のボート練習は函館湾だった。観光名所の金森倉庫群近くの西波止場から函館桟橋に向かって約千メートルこいで戻ってくる。「波が穏やかで、ナックルフォアの大会と同じくらいの距離なので、ちょうど良かった」
 風を切り、水面を滑空するようにオールでこぐと、行き交う青函連絡船と約500メートル並走できた。「洞爺丸、羊蹄丸、摩周丸…。ボートで連絡船に近づくと汽笛で注意されたこともあった」。山岸さんは懐かしそうに振り返る。


かつての函館桟橋方面から西波止場(左奥)の間で山岸さんがボートの練習をした。正面に見えるのは函館山=2024年8月

 青函連絡船は最盛期に13隻で1日30往復していた。その中でも洞爺丸は別格だった。全長100メートルを超える船体と優雅なたたずまいから「海峡の女王」と呼ばれた。練習中にデッキから乗客が「頑張れ」と手を振ってくれたこともあった。
 「私にとっては『女王』というより『雄姿』かな。4本の煙突があって、格好良かったよ」。憧れは日に日に増し、いつか洞爺丸の船長にと夢が膨らんでいった。

 ▽あかね色に染まった西の空

 山岸さんは当時、函館山のふもとの教会近くに住んでいた。「あの日」は日曜日。函館市内で小間物屋を営む叔父が東京・浅草で買い付けを終え青函連絡船で帰ってくる日だった。叔母から函館桟橋に迎えに行くように頼まれた。
 午後2時過ぎ函館桟橋に行くと、青森発函館行きの大雪丸は予定時刻を過ぎても接岸していない。雨脚は弱かったが、強風だった。
 2時間以上遅れで到着した叔父の顔は青ざめていた。「津軽海峡に入ったら揺れがひどくて、ひどくて。おっかなかった」。隣の岸壁で洞爺丸が出航準備していた。
 その頃、急に西の空があかね色に染まった。山岸さんは鮮明に覚えている。「晴れ間が広がり、風も弱まった」。午後5時ごろ、函館は台風の目に入った様相を示した。
 しかし、事故後に海難事故の原因究明に当たる海難審判の裁決などによると、台風は北海道に近づくにつれ速度を落とし、津軽海峡の西方に。夕焼けは台風とは別の前線通過による現象だった。
 裁決では事故要因の一つとして「台風が通過したと認められない荒天下に運航した」と、死亡した船長の職務上の過失を認定した。「一瞬の晴れ間」が出航判断に影響したとみられている。

 ▽深夜、叔父と顔を見合わせて「なんだべや」


共同通信の情報公開請求で海難審判所が開示した青函鉄道管理局と洞爺丸の通信記録。洞爺丸の発信で「2226 ザセウセリ」とあり、午後10時26分に座礁したことを示している

 その晩、山岸さんは函館桟橋近くの叔父の家に泊まった。「ピューピューと風が強くてね。トタン屋根が飛んできて、何かにぶつかり火花が出た」。五寸くぎで雨戸を固定し、台風に備えた。
 夕食を終え、くつろいでいた午後11時ごろ。不気味な汽笛が聞こえた。「1隻だけではない。何隻も一斉に『ボー、ボー』と鳴って、まるで合唱のようだった」。山岸さんは記憶の糸をたどる。「なんだべや」。叔父と顔を見合わせ、不安を抱えつつ床に就いた。
 共同通信の情報公開請求で海難審判所が開示した青函鉄道管理局と洞爺丸の通信記録によると、洞爺丸は「2226(午後10時26分)ザセウセリ(座礁せり)」と発信している。七重浜沖で沈没したのは午後10時45分ごろだった。
 洞爺丸沈没の約15分後に山岸さんが聞いた汽笛は何だったのだろうか。
 洞爺丸以外に第11青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸の青函連絡船の貨物船4隻が午後8時ごろから午後11時40分ごろにかけて相次いで同じ函館湾で沈没した。死者は約270人に上る。裁決によると、湾内で沈没船を含め十数隻の船がひしめくように停泊していた。


七重浜近くに設置されている看板。5隻の沈没位置が示されている=2024年8月

 荒れ狂う大波や強風で阿鼻叫喚の状況が続く中、洞爺丸の惨劇を察知した他の連絡船か、救難に向かおうとした船が一斉に汽笛を鳴らした可能性がある。

 ▽級友と目撃した白波の立つ黒っぽい船底


山岸さんの通学路だった八幡坂。奥に見えるのは記念館になっている青函連絡船摩周丸=2024年8月

 事故の翌朝、叔父からたたき起こされた。「光生、洞爺丸が沈んだとラジオで言っているぞ」。山岸さんは身震いした。通っていた函館西高は観光スポットの八幡坂を登り切った高台にある。「登校途中、至る所で木が根こそぎ倒れていた」
 教室では洞爺丸の話で持ちきりだった。住宅損壊など台風被害のため欠席する生徒が多く、朝会後に授業は中止。山岸さんは級友と一緒に校舎の屋上に上がった。
 七重浜の方角に目を凝らすと、沖合で白波を立てている黒っぽい船底が見えた。洞爺丸だった。ラジオのニュースが沈没地点に言及していたので、間違いない。「あんな大きな船がひっくり返るなんて」。ボートで並走した憧れの船の無残な姿に息をのんだ。そして船とともに海中で命を落とした乗客らに思いをはせ、黙って手を合わせた。


洞爺丸の船体切断作業準備を行うサルベージ船団=1954年9月30日

 山岸さんは就職活動で北海道警と旧国鉄の採用試験を受けた。高校の教師から警察官を強く勧められたが、青函連絡船の船長になる夢を捨てきれなかった。
 結局、採用通知が早かった道警に入った。「警察官人生に悔いはないが、洞爺丸の雄姿と夜半に聞いた汽笛の音は忘れることができない」。青春の一ページとして心に深く刻み込まれている。


七重浜の近くにある慰霊碑=2024年8月

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