人生も、日本陸上界も変えた1991年の世界一 「こけちゃいました」のマラソン谷口浩美さん
47NEWS / 2024年9月29日 10時0分
今から32年前の1992年バルセロナ五輪。「こけちゃいました」のフレーズで一躍時の人となった。陸上男子マラソンの谷口浩美さんは転倒の影響で8位。それでも注目を集めたのは、前年の世界選手権・東京大会を制していたからだ。34年ぶりに東京に戻ってくる来年9月13日開幕の世界選手権まで残り1年を切った。今でも鮮明に覚えているという当時の話を聞くべく、谷口さんの故郷で、現在暮らす宮崎県に向かった。(聞き手 共同通信・山本駿)
陸上の世界選手権は1983年に始まり、1991年の第3回大会で日本が開催地となった。それまでの過去2大会はメダルなし。男女を通じて日本勢初の金メダルを獲得する、歴史に残る舞台となった。
1991年9月、陸上世界選手権東京大会の男子マラソンで、1位でゴールする谷口浩美さん=国立競技場
「まだ世界選手権の意味合いも分からない時代。正直、そこまで自国開催への思いはなかった。1988年のソウル五輪に出場できず、ちょうど次のバルセロナ五輪の前年だったから狙おうと思った」
「当時は日本人が勝てるはずがないと言われていて、人気もなかった。でも、序盤で女子マラソンの山下佐知子さんが銀メダルを取り、男子100メートルのカール・ルイス選手(米国)も世界新記録で優勝。そこから一気に盛り上がった。山下さんが銀メダルを取った時はまだ札幌で調整していたが、もう金メダルしかないと思って練習に行った」
男子マラソンは最終日の9月1日に実施。朝6時スタートながら猛暑のレースとなったが、入念な準備が実を結んだ。
金メダルと練習日誌を手にインタビューに答える谷口浩美さん=2024年8月
「世界選手権に出るまでに13回マラソンを走っていた。13回目のマラソンは失敗したが、解説者の一人が『気温10度以下のレースで優勝したことがないんじゃないか』と言っていたのを聞いた。その話をもとに、1~13回目までの気象条件など全てのデータを集めて対策を立てた」
「実際に1989年夏の北海道マラソンで優勝していた。暑さに弱いと思っていたが、僕は調子乗りタイプ。『俺は暑さに強いんだ』と勘違いさせて、暑さを2時間10分ぐらい我慢できれば大丈夫だと考えるようになった」
「旭化成では宗さん(茂、猛の兄弟)たちが100日前からのトレーニングで本番に合わせるシステムを持っていたので、練習メニューを組んでもらった。2回目のマラソンからやっていたが、14回目は10日単位での日誌もつくった。体調管理についてや、疲労回復のためのマッサージを入れたか、ビールを飲んだかどうかまで記入。あれだけ事細かに計画したのは初めて。それが全部プラン通りに進んでいった」
「世界の選手たちがどんなレースパターンを得意にしているかもリサーチした。ソウル五輪金メダルのジェリンド・ボルディン選手(イタリア)の攻め方はハーフ&ハーフ。半分走って、半分はまた新しいレースという考え方をしている。エスビー食品にいたダグラス・ワキウリ選手(ケニア)は30キロまでいって、残りの12・195キロという分け方。新聞記事で情報を得て、勝負を想定していた」
当日は自信を持ってスタートラインに立った。終始先頭集団をキープ。終盤にスパートして逃げ切った。
「まず給水所。今はアルファベット順などで並べられているが、僕たちの時はテーブルに全部一緒に置いてあった。それがバルセロナのこけちゃいました、にもつながるんですが…。集団だと人が多くて取れないから、僕は5キロ地点で判断した。(歩道と給水テーブルの間に)立っている役員に『すみません、どいてください』と声をかけて反対側を走って給水を取った。日本語で通じるからラッキー。15キロぐらいでは(優勝候補の)中山竹通さんの分まで取って渡した。その時に顔を見たら頬がやつれて見えて『今日は駄目なのかな』と思えた(実際に途中棄権)。」
「30キロで1度飛び出したのにも理由がある。給水所は先頭に立つと取るのが楽。そこで考えたのは、自分が取りに行けば『谷口はスパートではなくて給水にいった』と思われるだけだろうと。後ろの集団は目線がみんなボトルに行くから、取ってすぐスパートした。目線を上げたら慌てるだろうと思った。それほど突き放せずに集団に戻って休んだが、10人ぐらいに絞れたのは良かった」
1991年9月、陸上世界選手権東京大会の男子マラソンの37キロ付近でスパートする谷口浩美さん(先頭)と追いかける篠原太さん(右後ろ)ら
「35キロ地点を通過する時は諦めもあったが、隣に篠原太君がいて、自分の時計をピッと押すのが偶然見えた。押すにもエネルギーが必要だから、それだけ余裕がある。ということは俺は篠原君より強いわけだから、もっと余裕があるはずだと、プラス思考が働いた」
「最終盤は暑さを気にしてみんなは首都高速の陰を走っていたが、僕は反対側で中継車をペースメーカー代わりに使ってスピードを上げた。そうしたらみんながこちら側に寄ってきて斜めに走ることになる。42・195キロの中で少しでも余分に走らせられると思った」
「自分が強ければただ走るだけでいいが、弱いからいろいろと考えないといけなかった。いろんなタイミングが当たって、してやったりのレースだった。単に勝ったからではなく、準備から全てがうまくいって、僕の最高のマラソン。僕の人生も日本陸上界も、大きく変えてくれた」
初出場のバルセロナ五輪に向けては重圧もあった。本番では22・5キロ付近の給水所で、後続選手に左足を踏まれて転倒。すぐに立ち上がり、脱げた靴を履いて前を追ったが、タイムロスが響いて期待された表彰台には届かなかった。
1991年9月、陸上世界選手権の男子マラソンで日本に初の金メダルをもたらし、日の丸の旗を掲げて観客の声援にこたえる谷口浩美さん=国立競技場
「世界選手権を優勝したことで国民の方に知ってもらえたことも大変だった。(この取材中にも)気付かれて声をかけてもらったでしょ。60歳を過ぎても言われる。当時が一番インパクトが強かった。翌日の9月2日も朝6時から皇居の周りに練習に行った。サラリーマンが地下鉄の入口から出てくるが、1面に『谷口金メダル』と書かれた新聞をみんなが持っていた。恥ずかしくて下を向いて走っていたのを覚えている」
「でも世界選手権で優勝したからこそ『こけちゃいました』が世の中に広まることにもつながった。転んだ場面をリプレーで流してくれたが、当時の技術ではなかなかできないことだったと聞く。後から知ったが、僕だけを撮っていたカメラが1台あったらしい。世界選手権がなかったら専用カメラもなく、あの映像はなかっただろう。国際映像でも流れて、海外の選手たちにも知ってもらえる機会になった」
「海外に行くと、五輪に出場するよりもワールドチャンピオンの方が名前が売れている国も多い。文化の違い。日本は世界選手権優勝といってもあまりピンとこないかもしれない。でも例えば、サッカーは五輪よりもその競技だけのワールドカップ(W杯)の方が価値がある。日本でももっと世界陸上のすごさが広まってもいいんじゃないかと思っている」
来年の世界選手権は陸上人気を高める絶好の機会。パリ五輪で金メダルを獲得した女子やり投げの北口榛花選手(JAL)を筆頭に盛り上がりが期待されている。
谷口浩美さん=2024年8月
「金メダルを取って、君が代を聞かせてくれる種目が増えたら。今の時代は君が代を歌ったことがない子もいるかもしれない。年齢を重ねると、共通する国民性が欠けていっているように感じて寂しさがある。君が代が流れて、みんなで立って、一緒になって歌える共通性が欲しい」
「国立競技場が満席になるかどうか、危機感はある。もっと関心を持ってもらうためにも、参加標準記録をクリアした選手の中から人気投票で代表選手を選ぶ制度などもあってもいいかもしれない。自分が一推しの選手が本番に出られるかどうかが気になり出すし、身近に感じられる。実際に出て結果が悪くても、自分たちが推した選手が世界とはこれだけ差があるんだと、知ることもできる。そうすれば、もっと応援しないといけないと思えるいいきっかけになるかもしれない」
「あと最後にお願いしたいのは、ぜひ全種目で選手を下の名前で応援してほしい。『谷口』よりも『浩美』と呼ばれる方がやる気が出るし、もっと力が出た。より自分のことを応援されていると感じられる、自国開催の特権を生かしてほしい」
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