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核保有国インドの国父像は、戦争被爆地の原爆資料館近くにふさわしい? ガンジー像巡る広島と長崎の対応

47NEWS / 2024年10月11日 10時0分

長崎原爆資料館=2024年9月

 長崎市が、インドから寄贈の申し出を受けたガンジー像を原爆資料館の入口近くに設置する方向だ。


マハトマ・ガンジー(AP=共同)

 ガンジーは非暴力・不服従の象徴だが、ガンジーを国父と位置付けているインドは大量の核兵器を保有している。
 広島市は既に、昨年5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)の際、ガンジー像を平和記念公園近くの緑地に設置した。
 広島と長崎では戦争という国策に動員された末、何十万もの人が核兵器の犠牲になった。彼らを悼み、核なき世界を誓う特別な場所の近くに、核保有国の国父像を設置することに、違和感が拭えない。


G7広島サミット開催時に広島市の平和記念公園近くに設置されたガンジー像。除幕式にはインドのモディ首相(左から2人目)も出席した=2023年5月


 幸いにも、長崎市には非暴力・不服従の象徴であるガンジーにふさわしい別の歴史的な名所がある。長崎市には、設置場所を再検討してもらえればと思う。(共同通信長崎支局長・下江祐成)

▽眼鏡橋付近に居場所なく…


観光客の写真スポットになっている眼鏡橋=2024年9月

 事の発端は今年2月。長崎市は、インドと交渉した結果、多くの観光客の写真スポット「眼鏡橋」近くにガンジー像を設置することになったと発表した。
 これに対して、街のシンボルとして眼鏡橋を誇りに思う地元住民らが「歴史ある地区にそぐわない」と待ったをかけたのだ。
 眼鏡橋は現存最古のアーチ型石橋の一つ。約400年前に中国江西省から渡来した高僧「黙子如定(もくすにょじょう)」が架設したが、インドとの直接的な関係はない。


眼鏡橋を架設した中国の高僧「黙子如定(もくすにょじょう)」の像=2024年9月、長崎市

 元々、インドはガンジー像の平和公園への設置を希望していた。だが長崎市は「平和公園に個人像設置は認めていない」と代替地を検討。人通りが多く「米軍による当初の原爆投下目標地点に近い」という平和のメッセージもある眼鏡橋付近を提示し、インドと合意していた。
 中国との縁が深い眼鏡橋では、住民に反対され居場所がなかったガンジー像。さまよった末、平和公園の区域外という理屈もあり、原爆資料館近くのロータリーに設置される方向だ。


ガンジー像設置が検討されている長崎原爆資料館入口の近くのロータリー=2024年9月

▽北朝鮮やイスラエルと同様

 筆者には釈然としない気持ちと、もったいないなという思いがある。
 釈然としない理由は、ガンジーは非暴力の象徴ではあるものの、インドは大量の核兵器を保有しているからだ。インドは、イスラエルや北朝鮮と同様、核拡散防止条約(NPT)の枠外で核を保有した国だ。
 長崎市の名物でもある、路面電車で原爆資料館を訪ねる多くの観光客がこのロータリーの脇を通って資料館に入る。いくら非暴力の象徴的な人物とは言え、核保有国の国父像が、観光客を出迎えるかのようになってしまうのではないだろうか。
 中国の覇権主義的な行動に連携対処するため、インドを重視している日本の外交方針は賢い選択だと思う。
 しかし、外交という国策である国家の論理を、無辜の市民が戦争という国策の犠牲になった広島と長崎という2つの平和都市が受け入れているのが理解できない。
 海外の人から「なぜ核なき世界を誓う原爆資料館の近くに、核保有国インドの国父像だけを設置してあるのか」と問われたら、長崎市はうまく説明できるだろうか?

 ▽出島の向こうにインドが見える

 もったいないなとも思う。
 インドからの寄贈を活用できれば、人口14億4千万人超と世界一で、経済成長も見込まれるインド人観光客を呼び込める気がするからだ。
 当初インド側と合意していた眼鏡橋に近い、別の観光スポット「出島」かその近くへの設置を、インドと交渉できないだろうか?
 唯一の西洋への窓口だった出島にあった、オランダ商館の影に隠れてあまり有名ではないが、江戸時代の日本とインドの庶民は深くつながっていたからだ。


18~19世紀につくられたインド更紗(出島復元整備室所蔵)

 出島には、現在のモディ・インド首相の出身地である西部グジャラートなど各地の庶民が家内工業でつくっていたインド更紗など綿織物が大量に輸入されていた。
 エキゾチックな模様を色鮮やかに染めたインド綿織物は、出島から日本各地に運ばれて大人気となり、京更紗や堺更紗など各地で模倣された。
 日本からの主力輸出品は銅だった。出島から輸出された銅のほとんどはインドに転売され、フライパンや建材などに加工された。
 当時のインド人の食事を調理していたフライパンは、日本産の銅でつくられたものだ。
 出島を通じて、江戸時代の日本人がつながっていたのは、仲介貿易をしていた
オランダの人たちというよりも、実は、インドの庶民とだった。

 ▽インド更紗はガンジーの理念に通じる


2017年9月にモディ首相の案内で、ガンジーが使用した糸車などを見る安倍晋三首相(当時)

 インド産綿織物は、ガンジーの独立運動の象徴でもある。ガンジーが、糸車(チャルカ)を回して木綿糸を引く姿は、あまりにも有名だ。
 インドを支配していた英国は、18世紀後半からの産業革命に成功し、機械による綿織物の大量生産を始めた。英国産の安い綿製品がインドに入ってくることになり、それまで世界中に輸出していたインドの綿織物産業は壊滅的な打撃を受けた。
 ガンジーがチャルカを回したのは、インドでの綿布生産を復活させ、英国の経済支配からも独立しようと考えたからだ。
 チャルカを回すガンジー像が出島にあれば、インド人観光客の魂を揺さぶり、長崎との深い縁を感じてもらえると思う。
 出島は、非暴力・不服従のガンジーの理念にも通じる歴史的背景の詰まった場所ではないだろうか。
 「鶴の港」と呼ばれる美しい長崎港には、外国から来た大きな客船が毎日のように着岸し、多くの外国人観光客が、キリスト教文化や明治維新の歴史、原爆の惨禍などを学ぼうと街を歩いている。


インドの伝統衣装サリーなどを着た女性たち=2014年5月、インド西部グジャラート州

 今は欧米や東南アジアの観光客が多いが、近い将来、カラフルな伝統衣装サリーを着た多くのインド人観光客が、出島にあるガンジー像を見て日本との歴史的な縁を感じたり、近くにある浜町アーケードでショッピングを楽しんだりする姿を見てみたいと思う。

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