1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

帰省中に能登半島地震で被災―。孤立した古里で、つながりを感じた6日間 来春から社会人の22歳「経験を生かしたい」

47NEWS / 2024年10月6日 10時0分

中山莉子さんと防災グッズ=7月、埼玉県内

 青山学院大4年の中山莉子(なかやま・りこ)さん(22)=埼玉県戸田市=は、2024年1月1日、帰省していた石川県輪島市町野町の実家で能登半島地震に襲われた。雨が降るように落ちてきた皿の割れる音、叫ぶ父の声―。古里の町並みは壊れてしまった。一方で、苦しいときだからこそ、家族の大切さや地域の人々とのつながりも実感した。来春からは大手自動車会社で、社会人として新たな一歩を踏み出す。「被災の経験を今後の自分に生かしていきたい」。県外へ逃れるまでの6日間を振り返った。(共同通信=日向一宇)

▽跳ねる座卓、倒れたピアノ


能登半島地震による激しい揺れで倒れた中山莉子さんの実家にあったピアノ=1月4日、石川県輪島市町野町


 輪島市東部の町野町。実家の2階で、同じく東京から帰郷していた社会人の姉とテレビを見てくつろいでいると、強い揺れを感じた。近年は地震が続いていたが「いつもとは様子が違う」。慌てて父ら家族がいる1階の居間へ駆け込んだ直後の午後4時10分ごろ、震度7の激しい震動が体を突き抜けた。父も単身赴任から帰省中。食事にも使う大きな座卓の下に身を隠したが、飛んでいくように跳ねるため、脚を押さえつけながらしがみついた。


 窓ガラスがはじけ、天井にたたきつけられた電灯が砕ける。重いはずのピアノが簡単に倒れ、買い物から戻ったばかりの母は、開けようとした居間のドアのノブをつかんでいないと立っていられなかった。
 カウンターキッチンにいた祖母は、倒れてきた食器棚や電子レンジで出入り口をふさがれ、しゃがみ込んだ体に皿などが降り注ぐ。気遣う父も「終わってくれ」「家がつぶれる」と叫ぶことしかできない。莉子さんは「大きな揺れが2回連続して起きたように感じた。数分程度のはずなのに、ものすごく長く感じた。パニックで頭の中が真っ白。もうだめだと思った」と恐怖を語った。

▽下敷きになった祖父、焦る津波避難


能登半島地震の発生から4日後の石川県輪島市町野町。中山莉子さんの祖父は倒壊している瓦屋根の雑貨店(右奥)のがれきの下敷きになった=1月5日

 揺れが収まり、カウンター越しに体を引き上げた祖母に大きなけががなかったが、祖父がいない。外へ飛び出して周囲を捜しても、返事がない。以前に住んでいた近くの空き家へ向かってみると、途中にある木造の雑貨店が道路に覆いかぶさるように倒壊している。下に人がいると教えられ、大声で「おじいちゃん」と呼びかけると、「おーい」と祖父の声がした。のぞき込んだわずかなすき間からは、柱や壁の下敷きになった上半身が見える。父らと素手でがれきを取り除いて引きずり出した。幸い、けがは擦り傷や頭にたんこぶができた程度で済んだ。
 家族全員の無事に安堵しながらも、頭から離れなかったのは津波だった。実家は海岸から車で10分ほどの海抜約10メートルで、記憶に残るのは東日本大震災の映像。スマートフォンの電波はつながらず、警報などの防災情報も把握できない。家屋倒壊や土砂崩れにも巻き込まれないよう、棚田が広がる高台に逃げなければと車2台に分乗したが、途中の橋と道路の境目に大きな段差ができていて乗り越えられない。学校の避難訓練で行っていた神社がある別の高台への道は、倒壊した家屋でふさがれていた。液状化なのか、根元から地面に沈み込んだ電柱も見えた。

▽暗闇でおせち料理を分け合った


避難生活を送った小学校=8月20日、石川県輪島市町野町

 逃げ道を失い、しかたなく選んだのは、実家の目の前にある母校の小学校だった。時間は午後5時前。2階にある畳敷きの部屋に入ると、床は冷え切っていた。降ってはいなかったが、外に積もった雪が残っている。停電で、日が暮れれば暗闇で身動きが取れない。実家へ戻り、布団や毛布、厚手の上着など寒さをしのげる最低限の物を急いで運び込んだ。正月用に買った菓子などの食料を抱え、冷蔵庫の食材で傷みそうなものは、雪に埋めて保存した。
 不気味な余震は続き、近くの中学校や公民館にも次々と住民が集まってきた。ストーブの備えは公民館だけで、逃げ出したときに着ていたパジャマにダウンジャケットをはおって体温を保った。やがて真っ黒な暗闇に包まれた。
 畳敷きの部屋には当初、4家族が身を寄せ、持ち込んでくれたおせち料理を丸く囲んで分け合った。「あまり喉を通らなかったが、『みんなでいれば大丈夫』と励まし合い、気を紛らわすことができた」。それでも、生き埋めになった隣家の夫婦のことが心配で寝付けなかった。
 日が昇っても、目に映るのは崩れ落ちた建物ばかり。配られた食料はわずかなビスケットなどだけで、水が飲めないせいか、手足がつるといった体の不調も感じた。不安ばかりが募るときに心の支えになったのは、避難先で久しぶりに再会した同級生たちと交わした、たわいのないおしゃべりだった。

▽ようやくスマホ復活


父方の祖父母宅前に立つ中山莉子さん=8月20日、石川県輪島市町野町

 3日目、自衛隊のヘリが小学校のグラウンドに着陸し、外部とのつながりができた。それでもほとんど情報が届かない中、父方の祖父母の家がある集落へ抜ける道が通行できるようになったと、うわさを耳にした。父と車に乗り込み、少し手前から路面が割れた道路を歩いて通るしかなかったが、2人に再会できた。家屋の床が落ち、裏の崖からは落石が起きていた。
 日中は玄関で過ごし、夜は車で寝泊まり。備蓄されていた米と水を父の車に積んで小学校へ移動し、親族8人がそろうことができたことを素直に喜び、「心配なことはあるが、後で考えよう。今は生きているだけで幸せ。できるだけ元気にしよう」と話し合った。


能登半島地震で被災した中山莉子さんが発生から4日目になって初めて、アルバイト先に送ることができた無事を伝えるメッセージ(上段)=7月、埼玉県内(画像の一部を加工しています)

 近くの市民プールでスマートフォンの電波がつながると、人づてに聞いたのは4日目。車を5分ほど走らせ、ようやく大学やアルバイト先、友人らに「家族は全員無事です」「家を失い、現在避難所で生活しております」などとメッセージを送ることができた。
 5日目の夕方には県南部に住む叔父が、通行できそうな道路を息子にインターネット上の口コミ情報から調べてもらい、小学校まで来てくれた。それまで、パンなど水分のない冷たい食料ばかりだったが、「この日の夜にカップラーメンを食べて、やっと温かいものを口にすることができた。本当にうれしかった」と笑う。

▽東京の日常「夢かな」

 6日目を迎えた朝、「この先どうなるか分からない。帰れるときに自宅に帰った方がいい」と、姉、父方の祖父母と叔父の車に乗り、金沢へ向かった。被災前の倍ぐらいとなる4、5時間をかけてようやくたどり着くと、そこで目にしたのは、地震の前と何も変わらない人々の様子。北陸新幹線に乗り、着いた東京も普通の日常が広がっていた。姉とは思わず「不思議だね」「夢かな」と言葉を交わしていた。


能登半島地震で被災した石川県輪島市町野町に届けられた支援物資=1月4日

 古里で過ごしたのは、支援が届く前の一番苦しい時間。「地震に遭ってよかったとは思わないが、実家に帰っていたから祖父母を助け出し、苦しいときに家族で協力することができた」と力を込める。
 被災生活中、近所の住民で所在が分からない人がいると、みんなで情報を共有した。不明者の名前が避難場所のホワイトボードに素早く書き込まれ、それによって次々に居場所や安否が家族にもたらされた。「都会では隣にどんな人が住んでいるかも分からない。助けてくれる人もいないかもしれない。人と人のつながりのありがたさを、改めて実感することができた」

▽地震を経て考えるようになったこと

 大学には1月11日から通うことができた。被災を経験し、「水道や電気、通信、道路などインフラの大切さを実感するようになった」と意識の変化を語る。就職活動では、両親は「思い通りにすればいい」と背中を押してくれた。大手自動車会社で働くことを目指し、移動手段としてだけでなく、寝泊まりや暖房機能、バッテリー機能、ライトによる明かりなど、災害時に果たせる車の役割の重要性を説明。「自分の経験を生かして頑張れる仕事に就きたい」と訴え、就職を決めた。
 「被災した経験と学術的に学んだことをそこで終わらせるのではなく、きちんと知識として自分の身に付けたい」。大学生活も残り半年程度となり、今は卒業論文の準備に励む。所属するゼミは、民間が解決できない課題を行政がどう解決するかを考える「公共選択論」が専門。避難生活中は、自身も被災しながら、輪島市職員として物資の仕分けや配布など、住民を懸命に支える母の姿を見た。
 日常生活でも、自宅近くには氾濫の危険がある河川が流れており、地域のハザードマップや避難所を確認し、水など災害時の防災グッズを準備。「首都直下地震や南海トラフ地震が、いつ自分の身に降りかかってもおかしくない。そのとき、どう行動するべきか、いつも考えるようになった」と自身の変化を語る。

▽静寂が広がる仮設住宅で、古里を思う


能登半島地震で倒壊した建物が残されたまま連なる石川県輪島市町野町=8月

 8月、夏休みに町野町を訪れると、被災の爪痕はまだ深く残されていた。がれきでふさがれていた道路はなんとか車が通れるようになっていても、そのすぐ脇には家屋が押しつぶされた状態のまま連なり、黒い瓦屋根が夏の強い日差しを浴びていた。同じ集落にあった約65軒のうち、倒壊しなかったのは実家を含めて1割にも満たないといい、「何も変わっていない」と思わず言葉が漏れた。
 液状化で沈み込んだ電柱は空間がゆがんだように斜めに立ち、石造りの神社の鳥居はばらばらになって草むらに埋もれている。遠くの山肌には、緑の木々を押し倒して茶色にえぐれた土砂崩れの跡が何カ所も目に入り、美しかった棚田は手入れをする人がいなくなり、背の高い雑草に覆い尽くされていた。


雑草に覆われた棚田=8月20日、石川県輪島市町野町

 土地を離れた住民も多いせいか、日中でも人影は少なく、小学校裏に建てられた仮設住宅に静寂が広がる。それでも、支援物資の配給時間には住民が次々と姿を見せ、なじみの顔を見つけて笑顔を浮かべながら言葉を交わしていた。掲示板には、焼きたてのたこ焼きを提供するイベントや定期的に催されるお茶会の案内など、交流を絶やさない取り組みも続く。


能登半島地震で被災した石川県輪島市町野町で支援物資を受け取る住民ら=8月(画像の一部を加工しています)

 復興への道のりが長く、厳しいことは否めない。最もつらいのは、人々の記憶が薄れていくこと。莉子さんは古里への思いをこう話す。「何年、何十年とかけて築いた街も一瞬で壊れてしまう災害は恐ろしい。住む家を失い、土地を離れる人も多いかもしれないが、ここでの暮らしを忘れることはない。これからは、慣れない仮設住宅での生活が続く人、つらい思いをする人がいるかもしれない。地震のことを風化させないためにも、できるだけ帰ってきて協力したい」。
 そして、決意を示すように「いつでも、どんなことでも困っている人の心を支えられるような社会人になっていきたい」と言葉に力を込めた。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください