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破裂音、噴煙、飛び交う岩石…10年前の御嶽山噴火、その時何が 死者58人、行方不明者5人の災害で変わった人生

47NEWS / 2024年11月2日 10時0分

山肌の複数の場所から激しく噴煙を上げる御嶽山=2014年9月27日

 「ゴーッ」という地鳴り。陸上のスターターピストルのような破裂音。2014年9月27日午前11時52分、長野、岐阜県境の御嶽山頂(標高3067メートル)。噴火に巻き込まれ、生還した登山者はその瞬間をこう振り返る。直後に真っ黒な噴煙が立ち上がり、山頂には火山灰と噴石が容赦なく降り注いだ。


 58人が死亡、5人が行方不明となった災害のその時、何が起きていたのか。噴火は関係者の人生をどう変えたのか。噴火から10年の機会に証言をたどる。(共同通信御嶽山噴火取材班)

▽意識のない女性、うめく青年…「ここで死ぬかも」

 スターターピストルのような破裂音を聞いたのは神奈川県綾瀬市の会社員里見智秀さん(58)。会社の同僚と登頂し、記念写真を撮った直後だった。「なぜ何もない山頂でこんな音が」。間髪入れずに同じ音が聞こえ、立ち上る噴煙も見えた。噴火だと直感した。


噴火当時身に着けていたズボンを手にする里見智秀さん=2024年9月8日、神奈川県厚木市

 1991年に雲仙・普賢岳(長崎県)で起きた火砕流の映像が頭をよぎる。里見さんは「ここで焼け死ぬかもしれない」と感じた。近くにあった祈禱(きとう)所の、お守りなどを販売するカウンターの下に身を潜めた。空を覆う火山灰で闇と熱気に包まれる中、娘の顔を思い浮かべた。
 やがて視界が晴れた。外へ出ると、灰に足を取られて抜け出せない人やリュックサックの一部が見えた。必死に手でかき分けたが、呼吸が確認できない人はそのままにして下山するしかなかった。下山後、同僚5人が亡くなったことを知った。1人は行方不明のままだ。里見さんにけがはなかった。


小野田猛さん

 愛知県豊川市の会社員小野田猛さん(62)は「ゴーッ」という地鳴りが聞こえた後、神社の後ろから真っ黒い噴煙が上がるのが「スローモーションのように見えた」。
 近くの社務所の軒下に逃げた。大量の火山灰に埋まった何人かは亡くなっていたようだった。何とか社務所内に入り、数時間を過ごした。噴石が屋根に落ち、何回も「バキン、バキン」と大きな音を立てる。意識のない若い女性や「背中が痛い」とうめく青年を運び入れたが、仕方がなくその場に残して下山した。小野田さんは噴石が頭に当たり、出血したが命に別条はなかった。


野村正則さんが撮影した亮太さん。後方は御嶽山噴火の噴煙=2014年9月27日(亮太さんの父敏明さん提供)

 山頂に続く尾根「八丁ダルミ」。愛知県刈谷市の野村正則さん(61)はおいの亮太さん=当時(19)=と写真を撮影していた際に噴火に遭った。亮太さんを収めた写真にはもくもくと立ち上る噴煙も写っている。「やばいんじゃねえの」と言って逃げ出した亮太さんを、野村さんは迫る火砕流にうずくまっている間に見失った。亮太さんの行方は今も分かっていない。

▽再噴火するかも…救助も決死の覚悟


南沢修さん

 山梨大地域防災・マネジメント研究センターで客員教授を務める南沢修さん(62)は当時、長野県危機管理防災課の課長補佐だった。土曜日で休んでいたところ職場に駆け付けた。まず情報収集に着手したものの、住民居住地が被災する大雨と違い、そもそも山頂に誰が何人くらいいるかが分からない。南沢さんは「全体像が見えない。情報が入ってこないのが一番きつかった」と振り返る。
 長野県安曇野市の医師上條剛志さん(66)は噴火翌日、救助活動のため現地に入った。担ったのは、多数いる負傷者の治療の優先順位を判定する「トリアージ」。生存の見込みが低いか、死亡を意味する「黒タグ」を何人にも付けるつらい作業だった。


救助活動に入った上條剛志さん=2014年9月28日(本人提供)

 県内の病院に勤務し、災害派遣医療チーム(DMAT)の一員でもあった。噴火翌日の午前6時半ごろ、山腹にあるロープウエーの駅に設けられた仮設救護所にいた。自衛隊、消防、長野県警の合同会議で「医師1人に付いてきてほしい」と要請された。しかし、いつまた噴火するか分からない。恐怖を押し殺し、参加を決めた。
 午前7時40分、6合目から登山を開始した。登山道には粘土状となった火山灰が堆積していた。滑りやすく、何度も転倒し、体力を奪われた。
 山頂近くに着くと、灰に埋まっている登山者が見つかった。体は冷たく、脈はない。黒タグを付ける。火山灰の中から腕だけが突き出ている人もいた。「この人も、黒タグ」。噴火災害の恐ろしさを痛感した。
 山小屋には6人の生存者がいた。骨折などで全員が歩行困難だったが命に別条はなかった。緊急処置の必要はない「黄タグ」を付け、先を急いだ。
 山頂の剣ケ峰には大勢の登山者が倒れていた。いつの間にか恐怖心はなくなっていたが、安全を危惧したDMAT側から「すぐに撤収するように」との指示が入る。「助けられる命は現場にある」と困惑したが、自衛隊のヘリコプターで下山した。感情で救助活動に混乱を生んではいけないと考えたからだ。


記者会見で当時を振り返る長野県警広報相談課の浅岡真管理官=2024年9月20日、長野市

 長野県警広報相談課の浅岡真管理官(52)は約3週間にわたり救助・捜索活動に従事した。当時は警備2課の課長補佐で、関東管区機動隊の長野中隊長を兼ねていた。
 救助活動は翌日から始まり、中断する10月中旬まで続いた。後方支援に従事する日もあったが、おおむね午前6時ごろに登山道を登り始め、午後5時ごろ下山する日々。山小屋の天井や壁には、噴石による無数の穴が開いている。噴煙が出続け、ジャンボジェット機のエンジンのような音も鳴りやまない。火山灰に雨が交じり、青色の雨がっぱが生コンクリートを塗ったような灰色になることもあった。

▽被災者家族の連携


⑧慰霊登山でシャボン玉を飛ばすシャーロック英子さん(手前)=2024年7月28日

 噴火は、多くの人の人生を変えた。
 東京都のシャーロック英子さん(65)は妹の夫が犠牲になった。噴火翌年に被災者家族会「山びこの会」の立ち上げを呼びかけ、ずっと事務局代表を務めている。
 妹は長野県東御市に住む伊藤ひろ美さん。夫の保男さん=当時(54)=は噴火の4日後、遺体で見つかった。シャーロックさんも帰省のたびにバーベキューをするなど頻繁に会っており大きな衝撃だった。
 火山噴火の人的被害では戦後最悪の大災害。ただ、何もしないでいるといずれ風化するのでは―。シャーロックさんはそんな思いで家族同士の連帯を訴えた。現在、被災者の51家族が所属する。
 2016年には会として初めて慰霊登山を行った。噴火時の灰がいまだ残る地獄のような光景が印象に残っている。頂上を見上げ、みんなで泣いた。ただ、現地でシャボン玉を飛ばすと不思議と犠牲者をそばに感じることができる。慰霊登山はその後も続け、今年も7月28日に行った。
 活動の参考にしようと、1985年の日航ジャンボ機墜落事故の遺族らでつくる「8・12連絡会」の事務局長美谷島邦子さん(77)を訪ねたこともある。シャーロックさんがつくる山びこの会の会報は今年9月で40号に達した。

▽風化防ぐため、経験伝える生存者

 冒頭で紹介した里見さんは今春、防災知識などを伝える長野県の「御嶽山火山マイスター」に認定された。山麓へ通い、顔を合わせた遺族らと交流する中で、防災に関わりたいとの思いが深まったためだ。「生還した自分だからこそできることをしたい」と安全登山の啓発に取り組んでいる。
 マイスターは火山から身を守る知識を登山者らに伝えるため長野県が認定しており、里見さんを含め現在28人。3回目となった昨年度の審査で合格し、同僚の墓前にも報告した。
 今年7月には初仕事として御嶽山の登山口で安全を呼びかけるチラシを配った。ヘルメットの着用率は高かったが噴火の事実さえ知らない人もいたといい、災害が風化しつつあると危機感を強める。自身の経験を通じ「この災害を忘れないでほしい」と訴え続けるつもりだ。
 同じく噴火に遭遇した小野田さんは2016年から毎年9月27日、現地に足を運び慰霊するとともに、登山者に経験を伝えている。
 2017年ごろのこと。山頂の社務所に運び込まれ、後に死亡が確認された東京都大田区の女性=当時(29)=の知人男性と山荘で偶然一緒になった。男性は「彼女と将来について話していた」関係という。女性の体が温かかったことを伝えると、つらそうな表情を浮かべた。
 しかし近年、山小屋などで自分の経験を語っても、噴火があったことを知らない人も増えた。里見さんと同様、意識の低下には懸念が募る。

▽地元と交流続ける遺族も


慰霊のため御嶽山に登り、ヒマワリの花束を抱える所清和さん=2024年7月28日

 次男とその婚約者を失った愛知県一宮市の会社員所清和さん(63)は、災害の風化を防ぐため、山麓に住む子どもたちに講話したり、一緒に登山したりするなどの交流を続けている。
 亡くなった次男は26歳だった祐樹さん、婚約者は24歳の丹羽由紀さん。職場の同僚だった。大きなショックだったが、所さんは「泣いてもわめいても、2人は帰ってこない」と考えた。災害について次の世代へ伝えたいとの思いもあり、噴火翌年の2015年、山麓にある王滝小中学校と連絡を取った。児童の前で語る機会を設けてもらった所さんは、祐樹さんのリュックサックに入っていた灰まみれの財布を手に命の大切さなどを訴えた。2019年ごろからは近くの三岳小とも交流を始めた。例年夏季に児童と一緒に御嶽山へ登り、防災について学ぶ機会にしている。
 所さんは「噴火は嫌いだけれど、御嶽山は好き。数ある山の中で息子が選んだ山だから」と話す。今まで20回は山へ入った。今年7月の慰霊登山では、ヘルメットを着用していない登山者を見て、既に風化したのかとやるせない気持ちになった。それでも活動を続けるのは「これが私にできる2人への供養だから」だ。
(取材=新井友尚、川村敦、富田真子、奈良幸成、橋本圭太)

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