「シベリアの悲劇を決して忘れじ」 戦争犠牲者慰霊の旅を続け約35年、日ロ平和を願った抑留経験者の僧侶
47NEWS / 2024年11月19日 10時0分
旧ソ連のシベリア抑留と日本のシベリア出兵による日ロ両国の戦争犠牲者を悼み、慰霊の旅を35年余り続けた岐阜県揖斐川町の僧侶横山周導(よこやま・しゅうどう)さんが2024年8月、99歳の生涯を閉じた。「悲しい歴史を決して忘れず、1人でも多くの若い世代に平和の大切さを伝えたい」。晩年まで、ぬかるんだ草地を自らかきわけて読経をささげ、現地の住民らと草の根の交流を重ねた姿を振り返った。(共同通信=日向一宇)
▽20歳で徴兵、ソ連軍の侵攻に遭う
慰霊の旅でシベリア鉄道に乗る横山周導さん=2017年8月、ロシア極東アムール州
「全ての原点はシベリアにある。そこで仲間が待っているので、体力が続く限り、足を運びたいと思っている」。2017年8月、地平線まで続く畑と草原を走り抜けるシベリア鉄道の寝台列車。横山さんは、90歳を超えてもなお、自らを奮い立たせるように慰霊の旅に赴く理由をこう述べ、歩んできた人生を静かに語り始めた。
満州のハルビンにあった布教者訓練所を併設した開拓指導者訓練所にいたころの横山周導さん=1943年(提供写真)
横山さんは、両親の負担を減らすため幼少期から寺で修行に入り、18歳だった1943年5月に満州へ渡った。「希望があふれ、憧れの土地だった」といい、訓練を経て吉林で念願の僧侶として歩み始めたが、戦局悪化の中で20歳を迎えると徴兵が待っていた。国境警備を担った当初は戦地の実感がなかったが、1945年8月9日に始まったソ連軍の侵攻で事態は一変した。哈達門周辺の山へ隠れて待ち伏せをした部隊は、持っていた最新の重機関銃などを南方戦線へ送った後。1人がかがんで入れる大きさの「たこつぼ」と呼んだ穴を道沿いに掘り、通過する敵のトラックや戦車に忍び寄って爆雷や手りゅう弾を投げ込んだ。
▽「だまされて、収容されてしまった」
白樺林にシベリア抑留犠牲者の墓石が並ぶ日本人墓地=2017年8月、ロシア極東アムール州
終戦の知らせはポツダム宣言受諾から1週間以上も遅かった。指揮官は白旗を掲げて投降したのに、隊員は「自由に解散」とその場に放り出された。しかたなく吉林へ向かうと、途中で身柄を拘束され、日本海に臨むポシエットへ徒歩で移動するよう命じられた。途中で目にしたのは、畑や沼に放置された数多くの日本兵の遺体。幼い子どもを連れた母親が必死の表情で駆け寄り「せめて、この子だけでも連れて行って助けて」とすがってきたが、支給された食べ物をこっそり渡すことしかできなかった。
ポシエットで約1カ月が過ぎたとき、鉄道に乗せられた。「日本へ向かう船が着いた」と期待したが、列車は北へ、西へと進み、到着したのはシベリア奥地コムソモリスクの強制労働収容所だった。怒りで暴れだす人や家族を思って涙を流す人。「だまされて、ついに収容されてしまった。自分の体は自分で守り、一人残らず帰国できるよう力を合わせよう。頑張って生きてほしい」。元将校の呼びかけに過酷な現実を思い知らされた。
高さ20メートルを超えるモミの木の密林は少し入れば、どこも同じ風景で方角を見失う。運び出した丸太を並べて土をかぶせると、ぬかるんでも崩れない道路になる。1日のノルマは1人1メートル。川に橋を架け、鉄道の敷地に山から破砕した砂利を敷き詰めた。「気温が氷点下60度だったこともある。1分もすれば、まつげが凍って前が見えず、体が棒のような感覚になっても必死に働くしかなかった」
草むらをかき分け、日本人墓地を巡った横山周導さん=2017年8月、ロシア極東アムール州
粗末な食事も重なり、多くの戦友が目の前で命を落とした。1人ずつ埋めることができた遺体も、数が増えると大きな穴に次々と投げ込むだけ。地面が凍ると掘ることさえ不可能になった。
▽帰国…涙で米粒が飲み込めず
収容所生活が約1年半を過ぎたころ、25歳以下から選抜して青年行動隊を組織すると知らされた。労働と並行して共産思想を徹底する赤化教育が強化される少し前。「よく働いた者は早く帰国できるというメッセージを信じ、手を上げた」。副隊長として住宅建設などに従事すると、約2カ月後に日本へ帰れると告げられた。ただ、隊長は本格的な思想教育として収容所に戻らないまま。「立場が逆なら、これほど早くは帰れなかった」
日本海沿岸のナホトカから引き揚げ船に乗り込んだのは1947年8月だった。「帰っても、受け入れられないのでは」という不安は、京都の舞鶴が見えてくると、全員で甲板に上がり「今度はだまされなかった」と喜びに変わった。上陸して真っ先に向かったのは、修行を始めた故郷の寺。住職の妻が炊いてくれた白飯に、あふれる涙が止まらなくなり、口にした米粒をいつまでも飲み込むことができなかった。
岐阜県内の中学校の教壇に立つ横山周導さん=1969年(提供写真)
故郷での暮らしも楽ではなかった。仕事に就けず、ようやく見つかったのが、人員不足を補うために免許を持たないまま教壇に立つ小学校の助教諭。「肩身の狭い思いをした」といい、大学の通信教育などを受け、社会科の免許を取得したのは27歳だった。約30年に及んだ教員生活も「ずっと迷いの中で教えていた」と話した。戦前は軍国教育に染まり、戦後は共産国家のソ連に抑留。現人神の天皇が象徴となり、民主主義や自由の意味を理解しても、敵だった米軍占領下にあるという状況に「自分の考え方について腹が決まらず、なかなかけじめがつけられなかった」。教え子にも抑留経験は語らず、その理由を問われると、急激に変化する高度経済成長期の社会にあって「自分の経験が日常とあまりに懸け離れ、誰かに伝えようという気持ちが湧いてこなかった」と複雑な心境を口にした。
▽弔いを終えても、押しつぶされた心
けさに身を包み、日本人墓地で法要を営んだ横山周導さん(左)。読経をささげた後、故郷へ帰れなかった戦友を思い、童謡「夕焼小焼」を歌った=2017年8月、ロシア・ハバロフスク(共同)
帰国後に初めてシベリアを訪れたのは、教員生活を終えた後の1983年8月で、58歳のときだった。当時は東西冷戦が続き、自由な訪問がままならない時期。抑留経験者で組織した「全国抑留者補償協議会」(解散)の一員として、ハバロフスクにある日本人墓地を訪れ、読経をささげ、法要を無事に終えた。ところが、戦友を弔えたはずなのに、心は押しつぶされていた。そこで目にしたのは、再会を信じていた妻が、夫が眠る墓にしがみついて涙を流し、いつまでも動けない姿だった。
横山さんは、自身の抑留が約2年で終わったことを「独身だった自分は帰れることがただうれしかった」と述べた。一方で「無事を祈って待っている奥さんやお子さんたちの気持ちまでは思いが及んでいなかった」。泣き崩れる女性の様子に自責の念があふれ出し、家族を思いながら亡くなっていった仲間の顔が次々と浮かんできた。それまでは抑留関係の活動に積極的とは言えなかったが、「これからの人生は僧侶として、できるだけのことをする。毎年お参りをしよう」と決意した。
▽知らなかった日本軍の虐殺
ロシア極東アムール州のイワノフカにある「哀悼の碑」の前で、手を合わせる横山周導さん(中央)=2018年8月(共同)
その後、ホールやアルチョム、チタ、カダラ、イルクーツク、アルマータ、モスクワなど各地を巡り、日本人墓地で法要を続けた。同時に、放置された日本人墓地を捜していたとき、1991年に立ち寄ったのが、ロシアの極東アムール州にあるイワノフカという村だった。祖国に帰れなかった仲間の無念を分かってほしい―。そんな思いを伝えていたとき、ふいに話を遮られた。「村の住民が日本軍に虐殺されたことを知っているか」。真剣な表情の問いに、何も答えられなかった。
1918年8月、日本はロシア革命後の混乱に乗じ、シベリア出兵を開始した。主要都市や鉄道を占領したが、抗日勢力パルチザンのゲリラ戦に苦慮。部隊全滅も起きた日本軍は1919年3月、イワノフカを敵の拠点と判断し、総攻撃を命じた。周辺村落への見せしめの意味もあった。「過激派に加担するものは全部焼き払う」。戦闘は激しさを極め、穀物倉庫に37人を閉じ込めて放火。生き残ったのは地面のくぼみにいた男児1人のみで、上には子どもを守るように多くの遺体が折り重なっていた。殺害された住民は村全体で約300人に上った。
当時のやりとりについて「日本が行った虐殺なのに、日本人の自分が何も知らない。教えてくれる日本人も1人もいなかった。それが恥ずかしかった」と語った横山さん。これを機にイワノフカと交流を始めた協議会は会員の寄付を募り、1995年7月に役場の前に広がる公園内に哀悼の碑を建立した。「ざんげの碑と呼んでほしい」というモニュメントには、戦争に巻き込まれた両国の犠牲者を共にしのび、互いの悲しみを理解することこそが平和の原点になるとの思いを込めた。
▽記憶の継承、若い世代の架け橋に
約300人の住民が旧日本軍に虐殺されたロシア・イワノフカに立つ哀悼の碑=2017年8月
哀悼の碑は、2011年5月の協議会解散後も地元の子どもらが清掃をするなどして大切に守られてきた。横山さんも訪問を続け、2006年12月にNPO法人「ロシアとの友好・親善をすすめる会」(解散)を設立し、理事長に就任した。シベリア出兵100年の節目となった2018年8月には、ロシア正教との日ロ合同慰霊祭を開催。現地の首長や住民らも含めた約80人が参列する中、読経をささげて両国の戦争犠牲者を追悼するとともに、記憶の継承を誓った。そして「戦争という負の遺産を平和の種子とし、大木に育てたい」と思いを述べた。
慰霊の旅だけでなく、ロシアの子どもが描いた絵を持ち帰って小学校に展示したり、日本の子どもの絵を現地に送ったりするなど、両国の若い世代の懸け橋となる努力も重ねてきた。2018年7月には揖斐川町で「日露交歓コンサート」を催し、イワノフカから招待した子どもらが色鮮やかな民族衣装に身を包みんで歌声を響かせ、伝統楽器の演奏や舞踏を披露。地元の児童グループは浴衣姿で合唱して歓迎し、会場を埋めた約600人の観客から温かい拍手が送られた。
▽ウクライナ侵攻に重なる抑留経験
草の根の交流を重ねたシベリアで、現地の子どもたちに囲まれる横山周導さん(左から3人目)=2018年8月、ロシア極東アムール州(共同)
高齢のほか、コロナ禍の影響などもあり、シベリアを訪れたのは2019年が最後となったが、日ロの友好と戦争犠牲者への思いを忘れることはなかった。だからこそ、ロシアによるウクライナ侵攻には心を痛めた。街が破壊され、子どもも犠牲になった。多くの住民がロシアへ連行されたと伝わった状況は自身の抑留経験と重なり、「どうしてそこまでやる必要があるのか。とても考えられない」と憤った。そして、信頼関係を築いてきた人たちの姿を目に浮かべながら「早く元のように交流ができるようになりたい。ロシアの人たちもきっと、そう思ってくれていると信じている」と願った。
戦火を交えた日本人の墓地には、現地の全ての住民が好感を持ってきたわけではない。死亡した抑留者の名前を残したプレートが持ち去られたり、墓が壊されたりした例もある。それでも、横山さんが訪れると、笑顔の住民が街の入り口で出迎え、お茶に手作りのパンケーキ、クッキーなどを用意して歓迎。お年寄りのグループが日本の歌謡曲に合わせ、練習してきたダンスを披露してくれた。横山さんは、現地で尽力してくれた関係者から送られた「私たちは同じ空の下で同じ空気を吸い、同じ地球の上に住んでいる。ロシアと日本のより多くの人たちが交流してほしい」という言葉をいつも大切にしていた。
▽「シベリアの 悲劇忘れじ 墓の石」
100歳を前に開かれたお祝いの会で元気な姿を見せていた横山周導さん=6月、岐阜県揖斐川町の勝善寺
今年6月、横山さんが住職を務めていた勝善寺では、9月に迎えるはずだった100歳を祝う会が開かれた。そこで、慰霊の旅に同行するなどしてきた人たちを前に語ったのは、やはり「シベリア抑留の経験があるから今がある」という自身の原点と平和の尊さ、戦争の愚かさだった。寺の境内には、その志を伝えようと、現地から持ち帰った石と98歳の時に残した「シベリアの 悲劇忘れじ 墓の石」という言葉を刻んだ石碑が立つ。8月に営まれた告別式には親族やゆかりのある人らが参列し、まるでその思いをシベリアに届けるかのように、抜けるような青空がどこまでも広がっていた。
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