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主役ばかりじゃ良い舞台はつくれない・石井琢朗さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(44)

47NEWS / 2024年11月14日 10時0分

2004年7月の阪神戦で、試合後にファンの声援を受け、笑顔を見せる石井琢朗さん=横浜

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第44回は俊足好打のチャンスメーカーで、通算2432安打の石井琢朗さん。2024年シーズンはDeNAのコーチとして「下克上」日本一に貢献しましたが、以前は打撃を教えるのが得意ではなかったそうです。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽投手でプロ入りしたのに、入団会見で憧れの選手に挙げたのは…


1989年3月、オープン戦に登板したルーキー時代の石井琢朗さん。投手としてドラフト外で大洋に入団した=横浜

 少年時代はいろんな野球入門書、打撃編や守備編、走塁編とかあって、山本浩二さんら各チームの名プレーヤーの人たちがモデル。そういう本ばかり読みあさりました。月刊ジャイアンツは柴田勲さんが現役の頃で、柴田さんが1番、張本勲さんは3番を打っていたのかな。その後は「青い稲妻」の松本匡史さんが出てきて、あの世代のジャイアンツファンだったですね。中でも篠塚利夫さん。父は「こういう選手になれ」って。王貞治さんとか長嶋茂雄さんとかじゃなくて篠塚さんだったですね。学童野球の時は篠塚さんの流し打ちをまねしました。


 最初は右打ちだったと父から聞いたことがあるんです。でも、やっぱり王さんの一本足打法をずっと見て育ち、打つのは左っていう先入観を持ってたのか、僕には右で打ってる記憶が全然ない。物心ついた時から左でした。中学校の授業で剣道があり、竹刀の握りは右手が上になるんですけど、違和感がすごくあった。だから僕はゴルフは右じゃ打てないんですよ。生粋の左なんじゃないかな。右利きだったら右で打てると思うんですよ。自分の左側から球が来るのを見る感覚はない。右側からの方が見やすい。
 ドラフト外でプロ入りした時は投手としての評価ですね。大学進学が決まってたんですけど、もうピッチャーをやめようと思っていたんです。(大学の)セレクションを受けた時はピッチングとかやりましたけど。高校を卒業して、その上のレベルで野球をやるんだったら、投手より野手でいきたいと考えてました。ただやっぱりね、小さい頃からプロ野球選手になるのが夢だったんで、別に野手じゃなくても投手として入れるんであれば、もう入っちゃえみたいな、そんな感じだった。でも、大洋(現DeNA)入団発表の記者会見で、憧れの選手は篠塚さんって言ってました。

 ▽38年ぶり日本一は、あの3年間があったから


1997年5月の巨人戦で石井琢朗さんは走者の松井秀喜さんをけん制アウトにする=横浜

 (打者転向2年目の1993年にシーズン100安打を超え)汚いヒットも多かったですし、足を生かした内野安打もありました。それが一応、石井琢朗っていうプレーヤーを構築していく上で、一つの武器。そういうものがないと、この世界でのし上がっていけない。まず若い選手って、そのチームにいる中心選手のまねから入りませんか?形態模写じゃないですけど。僕が打者転向した当初のファームの打撃コーチは高木由一さんでした。第一線で活躍していたのは同じタイプ、足があって内野手っていうところで高木豊さん。彼らをミックスしたようなバッティングでした。
 93年から試合に出続けさせていただいて、やっぱり慣れてきたんでしょうね。打つ方に関しては、そこそこ対応していたとは思います。あとは守備ですね。大矢明彦さんが監督になられ、サードからショートに変わった時(96年)が一番大変だったですね。守備面で神経を使うことが多かったので。逆に楽しかったですけどね。野球観が広がったっていうか。
 (横浜が38年ぶり日本一の98年は)年齢的に一番良かったですよね。脂が乗ってきた時期でもありましたし、野球が一番楽しかった時ですね。同じ(昭和)45年組がちょうどいい感じで27、28歳っていう年齢に来ていた。谷繁元信とか波瑠敏夫、佐伯貴弘、一つ上になると進藤達哉さんとか。そういう選手たちとの切磋琢磨が(自分自身の)成績や数字につながったと思います。
 近藤昭仁さんが監督の時の3年間(93~95年)に、その年代が鍛えられたんですよ。近藤さんが一番損した監督なのかなって思うんです。すごく厳しかったですし、僕らが怒られながら毎日毎日、試合に出てた感じですけど、その3年間があったから98年の優勝があるのかなと。


1999年8月の広島戦で本塁打を放つ石井琢朗さん。千安打に達したシーズンだった=広島

 年間150安打は毎年クリアしていこうという目標でした。打率は変動があるので、気持ちに浮き沈みが出てきてしまう。安打数は足し算で増えていくだけなんで。2千本を意識したのは1500本打った時(2002年)です。あと3年ぐらいで2千だなって。そこにちょっと落とし穴があったんですよね。03年にどーんと成績が下がった(前年の156安打から96安打に激減)。気の緩みじゃないですけど、少し守りに入った自分がいた。全てがうまくいかなくて、ファームへ行かせてくれと直訴しました。1カ月間ちょっと若い選手と一緒にやって(野手に)転向した当時を思い出して初心に返りました。ここから頑張ろう、このまま終われないって自分をもう一回奮い立たせられました。

 ▽膝のけがが阻んだ2500安打


2006年5月の楽天戦で石井琢朗さんは中前打を放って通算2千安打をマーク=横浜

 03年シーズンから2千本までの年月って、プロ野球人生の中で一番しんどかった。それなりに数字を積み上げてきた(02年まで6年連続150安打以上)ので、周囲から見たら、そこが基本になってくる。それ以下は評価として絶対認められなかったんで。そういうプレッシャーとの戦いでもありました。ベテランになればなるほど、若い時に許されたミスも許してもらえない。やって当たり前ができなくなってきていたのが、その時期なのかな。周りの声も厳しくなって、そういうのが一気にのしかかって押しつぶされそうになっていました。
 2千本を達成した06年に右膝の半月板を損傷したんですよ。やっちゃったなって思ったんですけど、病院にも行かないで無理して試合に出させてもらった。結局、シーズンオフに手術を受けました。ほぼ半月板を取っちゃう形に近かった。リハビリを丁寧にできてなかったんでしょうね。見切り発車で、自主トレで動いていました。
 次の年から膝をしっかり伸ばせないですし、力も入らない。広島に移って現役を辞める前の年(11年)に同じところを手術してるんです。その時は完全に軟骨がない状態。膝のけがさえなければ、もう少し数字が残せたんじゃないかな。やり直せるんだったら、しっかり自己管理をしてやり直したい気持ちはあります。個人的に2500安打はしたかった。近い目標に立浪和義さんがいました。現役を退かれて数字が(2480安打で)止まり、立浪さんを抜けないかなってひそかに思ってたんですけど、なかなか難しかったですね。

 ▽選手は満点の結果を求めがちだが、僕の評価はそこではない


2003年8月の巨人戦で石井琢朗さんはプロ野球25人目の通算300盗塁を達成=東京ドーム

 僕の中で一つのこだわりは、やっぱり得点だったんです(1298得点は歴代10位)。チームに一番貢献できるのは打点だと思うんですけど、その打点にどれだけ自分が絡めるか。1、2番を打つことが多かったんで、出たら本塁にかえってくるところのこだわりは、すごく持っていました。ホームランバッターは自分で打って自分で得点できる。ホームランが少ない中で得点をどれだけ稼ぐか。(適時打などで本塁へ)かえしてくれた方々には本当に感謝なんですけど、その辺はトップバッター冥利に尽きるっていうか、一つの勲章のような気はします。


2016年9月、試合前練習で球をトスする石井琢朗さん。打撃コーチとして広島の25年ぶりリーグ優勝に貢献した=東京ドーム

 僕は現役時代、長嶋さんに近いっていうか、来た球をバンって打つ感じでした。独自の感性でやってた部分があったので、打撃を人に教えることが、すごく苦手だったんですよ。だからコーチになって、バッティングを現役の時より考えている気がします。自分の感性を言葉にして人に伝える作業がすごく難しくて、本当に勉強になります。
 打撃に関して選手は、例えばキャンプで紅白戦だ、練習試合だとなった時にヒットだったりホームランだったり、アピールするのに100点満点の良い結果を求めがちです。僕の評価はそういうところじゃない。打線は全員が4番ではありません。1番や2番だったら、粘って粘って球数を投げさせ、結果的に三振で0点かもしれないけれど、それまでのプロセスを考えると満点なんですよ。簡単に初球でフライを打ち上げた結果と同じ0点でも、次のつながりを考えていくと全然違う。力と力、一対一の勝負は見ている方は面白いんでしょうけど、チームとしてどう立ち回るかが、すごく大事なところです。舞台をやるにも主役ばっかりじゃ良い作品はできない。名脇役っていうのが、どれだけ役に徹するか。全員が主役になろうとしたら、打線は機能しなくなります。

 ×  ×  ×
 石井 琢朗氏(いしい・たくろう)栃木・足利工高から1989年に投手としてドラフト外で大洋(後の横浜、現DeNA)入りし、92年から内野手。98年に横浜の38年ぶり日本一に貢献。名球会入り条件の2千安打は2006年5月に到達した。広島へ移籍して4年目の12年に引退。ベストナイン5度、盗塁王4度。70年8月25日生まれの54歳。栃木県出身。

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