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夢の海外移民、カリブ海の「楽園」は地獄だった 日本政府と法廷闘争、ドミニカ共和国の日系「棄民」の65年(前編)

47NEWS / 2024年12月3日 9時0分

1956(昭和31)年7月2日、ドミニカ共和国への初の移民185人を乗せた「ぶらじる丸」が横浜港を出港。59年まで「カリブの楽園」に約1300人が移住した

 カリブ海の島国ドミニカ共和国をご存じだろうか。1950年代に日本政府の国策でこの地に移住しながら約束通り土地が譲渡されず「戦後移民史上最悪のケース」とされた苦難を乗り越えてきた日本人たちがいる。差別、内乱、日本政府の失策と法廷闘争―。苦しんできた日本人を対象に、ドミニカ共和国政府は移住開始から65周年を機に45家族を対象に約2千万円の補償を決めた。中南米の日本人移民に対する受け入れ国政府による補償金支給は初めてだった。歴史的な円安に見舞われ、再び海外で稼ぐことを目指す日本人が増える中、葬らせてはならない教訓とは何か。試練の道程を証言でたどった。(共同通信・前サンパウロ支局長=中川千歳)

▽甘い事前調査の国策移住、独裁者の国へ


ドミニカ共和国南西部ネイバで日本人がかつて暮らした住居には、いまドミニカ人が住む(共同)

 「カリブの楽園」。日本海外協会連合会(現・国際協力機構〈JICA〉)がドミニカ共和国への農業移民を募集した際のキャッチフレーズとなった言葉だ。
 戦後の海外移住は、外地からの引き揚げなどで過剰となった人口問題の解決策として、国策で進められた。
 多くの移住者が、日本とは直接戦火を交えなかったブラジルやパラグアイ、アルゼンチンなどの南米の国々に渡った。


 カリブ海に浮かぶ島国ドミニカ共和国は、当時の独裁者ラファエル・トルヒジョ元帥(1891~1961年)が日本人の受け入れに前向きだった。1954年、上塚司衆院議員がブラジルの農場視察の帰りにドミニカ共和国に立ち寄り、トルヒジョ元帥と会談。この時に日本人農業移民を送ることが決まったという。

 しかし移住計画は多くの問題をはらんでいた。入植地が耕作に適した土地かどうかという基本的な問題を含め、現地の法律などに関しても十分な調査がされていなかった。
 移住の時期が迫ったころ、ドミニカ共和国は日本政府が求めた灌漑設備の整備が不可能だとして中止を要望した。だが日本政府は移住者を送り出した。
 また南米のほかの国々と結んでいた、移住者の法的身分の根拠となる移住協定も、ドミニカ共和国とは結んでいなかった。移住者に「譲渡する」と募集要項に書かれた土地は、ドミニカの法では所有が不可能で、耕作権のみが与えられることになっていた。

 そうとは知らず、募集要項に書かれた「開墾したる土地300タレア(18ヘクタール)無償譲渡する」という言葉に引かれ、1956年7月、28家族185人が第1陣として入植、その後も1959年までに249家族1319人が8か所の入植地に入った。

▽荒れた大地、銃持つ役人が監視


ドミニカ共和国政府との補償交渉の経緯について語る嶽釜徹さん=2023年8月、サントドミンゴ(共同)

 だが、そこに“楽園”はなく「実際は地獄だった」とドミニカ日系人協会会長の嶽釜徹(たけがま・とおる)さん(86)は首都サントドミンゴの事務所で、来し方を振り返った。
 嶽釜さんは第1陣として1956年、鹿児島県知覧町(現南九州市)から北西部ダハボンに家族7人で移住した。当時18歳。医師を志していたが農業技師の父ら家族と共に異国に移ることを選んだ。移住先でも勉強を続けられると聞いたからだ。
 ダハボンは、隣国ハイチと国境を接する町だ。割り当てられたのは300タレアに到底届かない80タレアだった。失望は大きかった。入植地は9段の有刺鉄線に囲まれ、管理人の許可なしには出入りができなかった。「囚人と同じだった」と嶽釜さんは振り返る。

 移住者はダハボンのほか、ハラバコア、アルタグラシア、アグアネグラ、コンスタンサ、ドゥベルヘ、ネイバ、マンサニジョと8カ所に振り分けられた。
 移住者の記録には次のようにある。
 「石ころだらけの土地、塩分で真っ白の農地…。急傾斜でとても作物が植えられる状態でなかったり、用水路が整備されていなかったり…。もし用水路があっても極端に水量が少なく、移住者同士で水争いをするありさまだった」
 「コロニア(移住地)ごとの事情は異なるが、とても農業を営むような土地の状態でない点では共通していた。さらに驚くことに、畑は鉄条網で囲まれ、銃を持った役人が馬の上から農作業をする移住者を監視、『草を刈れ』と命令する。『良質な大農地を無償で配分する』という募集要項を信じ、『楽園での自作農』を夢見て移住した日本人には理解しがたい光景であった」

 それでも日本人移住者は割り当てられた土地で懸命に農業に従事した。
 嶽釜さんは農作業と勉強を両立させようとしたが、ダハボンには日本政府の言ったような大学はなかった。「おやじは日本政府にだまされたかもしれんけど、おれはおやじにだまされた」と父と随分けんかをした。
 嶽釜さんは後に日本政府を相手取った訴訟の原告団事務局長として、6年にもわたる法廷闘争を戦い抜くなど、波乱の多い移住人生を歩んでいるが、一番つらかったことを尋ねると「勉強ができなかった」ことだとぽつりと答えた。

▽「ろくに食事もできない」


ドミニカ共和国ダハボンで、農耕地の水不足に苦しんだ体験を語る向井猛さん=2023年8月(共同)

 ダハボンに住む向井猛(むかい・たかし)さん(77)=山口県岩国市出身=と早苗(さなえ)さん(75)のきょうだいも、十分な教育が受けられなかった。猛さんらは1958年6月、10歳の時に南西部アグアネグラに両親と祖母、弟2人と移住した。

 向井家は200タレアの土地を譲渡されると聞いていた。だが実態は「(日本政府の)募集要項とは雲泥の差で、来た途端にそんな夢はぱーっとなくなっちゃった」と語る。
 向井家に配分された土地はなく、父は空いている土地を探し回ったり、ほかの移住者から分けてもらったりしたという。それでも土地は100タレアにも満たず、コーヒーや野菜を栽培したが、水の少ない土地で苦労した。
 早苗さんは「ろくに食事できない時代もありました。白いご飯を食べることはほとんどなかったし、おかゆとか青いバナナをゆでて食べたりした」と話した。

 アグアネグラには電気もなかった。猛さんの父は、日本の教科書を中学分までそろえて持って来ていたが、勉強するどころではなかった。猛さんもつらかった経験として「教育面。それ全然(だめだった)」と話した。早苗さんも少しだけ通った学校について「日本の寺子屋を想像していただければいい。読み書きと計算だけを教えてそれ以上は教えない」。そして「病院もない。もしも緊急を要する手術が必要だってことになったら死ぬことになる」と振り返った。

▽死ねば帰れる


日本人入植者の墓地を歩く向井猛さん=2023年8月、ドミニカ共和国ダハボン(共同)

 移住地の多くは劣悪な環境で、生活苦や、死ねば家族を日本に帰してもらえるとの動機から10人超の自殺者も出たという。「まさに『棄民』だった」と嶽釜さんら多くの移住者は言を同じくする。
 1961年にトルヒジョ元帥が暗殺され状況はひどくなった。独裁政権下で土地を接収された国民が、日本人移住者が耕していた土地の代金を請求するなどしてきたためだ。

 移住者の抗議の声を受け、日本政府はこの年、希望者に対し、集団帰国やほかの南米の国への再移住の措置をとる。
 だが、嶽釜さんら50家族余りは残った。なぜ帰国しなかったのか。嶽釜さんは、「財産整理して来とる。今さら、帰るところなんかなかった」
 日本政府はこの後も、移住者が求め続けた、募集要項で示した条件と実際にドミニカ共和国での実態との差異について説明することはなかった。

 嶽釜さんの父ら家長らは日本政府に、約束通りの土地の要求を続けたが、解決の道筋は示してもらえぬままだった。
 1987年、父は亡くなる数日前に嶽釜さんを呼び寄せ、土地問題についてこう言い残した。
 「自分らの世代で解決するのが本当だが、できなかった。だから後を頼む」。嶽釜さんはこの遺言を受け、問題をじっくり調べた。そして「日本の国策で来ているわけだから、日本の法に基づいて解決策を見つけざるを得ない。残念だけど、祖国を訴えざるを得ないという結論に達した」

▽祖国を訴える悲しみ


小泉純一郎首相(当時)と面会するドミニカ移民訴訟の嶽釜徹原告団事務局長(左)ら=2006年7月21日、首相官邸

 嶽釜さんは原告団結成のため、移住者の賛同を集めて回った。高齢者は「祖国を訴えるなんて」「これしか解決法はないの」と泣きながら委任状に署名した。
 訴訟の直前、現地日本大使館は首都サントドミンゴ郊外「ラ・ルイサ」の土地を移住者に配分しようと共和国政府と共に動いた。頻繁に水害に見舞われる劣悪な土地だった。形式上でも土地を配分することで訴訟を封じるか、または訴訟上有利になるよう図ったのか。結局訴訟に加わらなかった27家族がその土地を受け取った。
 嶽釜さんは「自分の国を信用できないちゅう、こんなに苦しい、悲しいことはなかった」と述懐した。

 2000年以降、第3次訴訟まで170人余りが、募集条件違反だとして日本政府への損害賠償を求め東京地裁に提訴した。2006年の一審判決は国の賠償責任を認めたが、除斥期間(法律上の権利を行使しないままでいると、その権利が消滅するまでの期間)を過ぎたとして請求は棄却した。

 当時の小泉純一郎首相が「当時の政府の対応により移住者の方々に多大な労苦をかけたことを、政府として率直に反省し、おわびする」とした謝罪談話と1人最高200万円の特別一時金の支給が示された。
 原告団の間では評価が割れた。団長の木村庫人(きむら・くらと)さん(故人)の「完全には納得できないが、(首相のおわびで)了解するより解決の方法はない」という言葉が多くの人の心情を代弁した。原告側は控訴を取り下げた。譲渡されるはずだった土地の問題は未解決のまま残った。
 ×  ×  ×
 ドミニカ共和国 カリブ海のイスパニョーラ島の東3分の2を占め、西はハイチと接する。人口約1133万人で公用語はスペイン語。1492年にコロンブスが到達、スペインや米国の占領を経て独立した。1930年、トルヒジョ将軍がクーデター後に大統領就任、1961年まで独裁体制を敷いた。観光や海外送金が主な外貨獲得源。

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