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父と息子、丸い土俵と固い絆 母が急逝、19歳の新十両若碇は気合と根性、そして感謝

47NEWS / 2024年11月19日 11時30分

大相撲九州場所初日の土俵で塩をまく新十両若碇=2024年11月、福岡国際センター

 2024年の大相撲を締めくくる九州場所で、小さな力士が大きな一歩を刻んだ。若碇(わかいかり)=本名斎藤成剛、京都府出身、伊勢ノ海部屋=が19歳の若さで新十両に昇進。176センチ、117キロの小兵はしぶとく、きびきびとした取り口で23年初場所の初土俵から2年足らずで出世を遂げた。「豪快な相撲を取って、いつか幕内後半戦の土俵に上がりたい」。大志を抱く過程には別れと出会い、そして周囲の愛情があった。(共同通信=田井弘幸)

▽解説のマイクに「ボコッ」、新十両手中で父親は…


新十両に昇進した若碇(右)は父の甲山親方(元幕内大碇)が教官を務める相撲教習所で握手=2024年10月、東京・両国国技館

 24年9月の秋場所千秋楽は深い因縁を感じさせた。西幕下2枚目の若碇は3勝3敗で最後の一番。勝てば勝ち越しで新十両昇進は確実となり、負ければまた出直しだ。相手は十両力士だった。

 この時間帯で偶然にもNHKテレビ中継の解説を務めたのが、父の甲山親方(52)=元幕内大碇、京都府出身、伊勢ノ海部屋。NHKのテレビとラジオの解説者は場所前から15日間全て決まっており、長男の大一番だからといって辞退はできなかった。

 激しい攻防から投げの打ち合い。最後は若碇が執念の右掛け投げで競り勝ち、関取の座を手中に収めた。その瞬間、テレビ画面越しに「ボコッ」という鈍い音が響いた。
 父が思わず両手をたたこうとした際、マイクに当たったという。「『しまった!』と思って手を引いたけど、あかんよねえ。ただ、やっぱり尋常ではないほどドキドキしたわ。解説でしゃべらなあかんし…。でも、込み上げるものはもちろんあったな」。野太くて、よく通る大きな声。京都府出身を思わせる関西なまりは知る人ぞ知る名調子だ。集中していた若碇は父が解説だったことを後で知った。丸い土俵で、ともに闘ってきた親子の夢は、こんな形で実現した。

▽失意のどん底「これからどうしたら…」

 


父の甲山親方(元幕内大碇)に抱っこされる0歳の頃の若碇=2005年、京都市の松尾大社

13年6月19日は、悲しい一日だった。
 甲山親方の妻直美さんが急逝した。12年1月に生まれた第4子の長女世奈ちゃんが病気で亡くなってから約3カ月。直美さんは連日の看病で心身が疲労する中、がんを発症していた。東京都内の自宅で療養中に容体が急変し、搬送先の病院で息を引き取った。34歳だったという。
 若碇は小学3年、次男の忠剛は小学1年、三男の夕剛は幼稚園の年少だった。家を出る朝、母は生きていたのに、帰ってきた時にはあまりに酷な知らせが待っていた。「悲しかったけど、いつ立ち直ったかは分からない」。若碇の記憶は断片的だ。当時41歳の甲山親方は失意のどん底に落ちる一方、現実に直面した。「これからほんま、どうしたらいいのかな…」
 年6度の本場所のうち、地方場所は大阪、名古屋、福岡の3度で、それぞれ1カ月ほど滞在。さらに新弟子を指導する相撲教習所の教官として、偶数月の平日の大半は朝早くから午後まで両国国技館で勤務する。仕事、家事、まだ小さい3人の育児を一手にこなさなければならない。父1人、息子3人の日々が始まった。

▽目の前を照らしてくれた、寺尾の言葉

 突然の別れから間もない日のことだった。甲山親方は、ある会合で錣山親方(当時、元関脇寺尾=故人)と同席。この時は時津風一門の大先輩で、日頃から目をかけてくれていた。錣山親方はゆっくりと、穏やかな表情でつぶやいたという。「いやあ、でも、もうね…。前を向いて生きるしかないからね。子どもがいるんだから、前を向いて生きるしかないから」。前を向いて生きる―。「確かにそうだな」。この言葉が目の前を照らしてくれた。
 甲山親方は言う。「寺尾関のあの一言で、俺はもうやるしかないと思った」。息子3人は既に相撲を始めており、8月には稽古を再開した。戦後間もない時期から続く伝統の小松竜道場(東京都台東区)に所属。父は週3回の稽古に全て付き合い、まわしを締めて胸を出した。自分と子どもたちとを結ぶ絆は土俵だと信じ「絶対に相撲を続けてほしかった」と一緒に汗を流してきた。
 毎日の食事にも全力を注いだ。暇を見つけては料理系ユーチューバーの動画で勉強。晩ご飯はおかず3種類以上を並べ、カレーライスや豚テキ、鳥の唐揚げは好評だった。朝は白米にハムエッグを乗せ、自分は国技館へと出勤した。「ご飯はほぼ自分が作った。絶対に手を抜きたくなかった」。地方場所で不在の期間は直美さんの両親が神戸から、自身の両親が京都から交代で来てくれた。それ以外は一人。運動会は3人分の弁当を作って応援し、授業参観にも可能な限り行った。「子どもたちに寂しい思いをさせたくない」との思い一つだった。
 前向きに毎日を生きる親子を周囲も後押しした。錣山親方は3兄弟にお年玉を毎年渡し、同親方の兄の井筒親方(当時、元関脇逆鉾=故人)は夏休みに親子4人を焼き肉やすしへ連れて行ってくれた。ともに10代で母を亡くしており、人ごとではなかったのだろう。

▽人生を変えた寮生活、感謝の大切さを知る


全国高校総体会場で記念撮影に収まる若碇(左)と父の甲山親方(元幕内大碇)=2022年7月、高知市

 「母が他界してからは、父が基本的に一人で家事、育児を全部やってくれた。いつか関取になって恩返しをしたかった」。若碇はかみしめるように語る。心の底からそう思えるようになったのは、親元を離れての寮生活だった埼玉栄高の3年間が礎となる。「人生を変えてくれた」と言うほどだ。
 若碇は中学卒業まで目立った実績がなく、高校入学時は体重75キロと細かった。全国屈指の強豪校で2年までは補欠。それでも充実した稽古と食事で卒業時には110キロに増え、3年で主将を務めるまでに成長した。
 厳しい指導の一方、埼玉栄高の山田道紀監督は部員全員に手作りのご飯を毎食用意した。「親にやってもらうのは当たり前のことじゃないんだぞ」と何度も言い「感謝」の大切さを説いた。
 高校2年の時、新型コロナウイルスがまん延し寮でクラスターが発生した。山田監督と妻早苗さんは分厚いマスクにフェースシールドを着け、汗だくになって調理場に立った。感染した大勢の部員を車で片道30分かかる病院まで10往復以上して送迎。若碇は「早苗さんは寮母さんでもないのに、自分たちのために世話をしてくれた。あの時の感謝は一生忘れない」と話す。高校時代で最も記憶に残った出来事であり、人の温かみを再確認できた瞬間だった。


伊勢ノ海部屋での入門会見に臨む若碇(左)と父の甲山親方(元幕内大碇)=2022年12月、東京都文京区

 山田監督は「成剛がお母さんの話をしたことは一度もなかった。父親は親方だし、プロに入ったら甘える人もいない。稽古は常に一生懸命で、大相撲で番付を上げなければいけないという覚悟があった」と証言。新十両を決めた一番のように、絡みつけた足を絶対に離さない執念もある。「見る人を感動させるハートの強さだよ。旭国、北瀬海、陸奥嵐とか昔の小兵力士みたいになってほしい。感謝を忘れない子は伸びるんだよ」と目を細めた。

▽母校の化粧まわし、みなぎる気合と根性


新十両若碇(前列2列目右端)は小松竜道場の祝勝会で所属選手や指導者と記念撮影。前列2番目の左端は父の甲山親方(元幕内甲山)=2024年10月、東京都墨田区

 大きな白星をつかんだ秋場所千秋楽、若碇は国技館からほど近い回向院の裏へ向かった。母が眠る墓前で手を合わせ「十両に上がれるようになったよ」と報告。幼少の頃から「お相撲さんになってね」と励ましていた天国の直美さんへ最高の供養となった。
 10月中旬には東京都内で小松竜道場による祝勝会が開催された。酒に酔い、うれしさを隠しきれない甲山親方の笑顔が光った。着物をまとった若碇の仲間の父母たちは一家を支えた時と同じく、包み込むような優しさで「成剛、おめでとう!」と口々に祝福した。


大相撲九州場所初日で初の十両土俵入りに臨む若碇(中央)。化粧まわしは母校の埼玉栄高から贈られた=2024年11月・福岡国際センター

 晴れて関取として迎えた九州場所初日。若碇は埼玉栄高から贈られたオレンジ色の化粧まわしで十両土俵入りに臨んだ。筋が一本通ったような引き締まった体には母校で学んだ「感謝」が浸透し、小松竜道場が掲げる「気合と根性」がみなぎる。「お客さんが喜ぶ相撲を」と願う父とともに歩む土俵人生は、ずっと続いていく。

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