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巨大軍需工場の悲劇、真っ先に攻撃の標的となり犠牲者多数 「東洋一」とうたわれゼロ戦エンジンなど製造

47NEWS / 2024年12月3日 9時30分

空襲を受ける中島飛行機武蔵製作所(米国立公文書館所蔵)

 東京の西部、現在の武蔵野市にかつて「東洋一」とうたわれた巨大な軍需工場があったのをご存じだろうか。太平洋戦争時、軍用航空機の生産で三菱重工業とシェアを分けた「中島飛行機」の武蔵製作所―。零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジンなどを製造し、敷地面積は東京ドーム12個分に当たる約60万平方メートルに及んだ。
 だが当時最先端の工場は、それ故に米軍の最重要の標的となった。戦争末期、北マリアナ諸島のサイパン島が陥落すると、1944年11月24日、同島を飛び立ったB29爆撃機による初めての本土空襲として攻撃を受けた。
 敗戦後に閉鎖された工場は一時期、米軍宿舎として使われるなど数奇な運命をたどった。最初の空襲から80年。今は広大な公園の一角に小さな名残をとどめるのみだ。(共同通信=松本鉄兵)

 ▽真珠湾攻撃に参加の攻撃機を製造、一大航空機メーカーに
 中島飛行機は、海軍出身の中島知久平が1917年、今の群馬県太田市に設立した「飛行機研究所」が起源とされる。当時の最先端技術を駆使し、日本海軍の単発機として初めて引込脚を採用した「九七式艦上攻撃機」や、一式戦闘機「隼」などを送り出した。九七式艦上攻撃機は日米開戦のきっかけとなった1941年12月の真珠湾攻撃でも使われ、中島飛行機は一大航空機メーカーへと成長した。


中島知久平

 現在の武蔵野市に陸軍専門の工場「武蔵野製作所」が開設されたのは1938年。その3年後には、隣接地に海軍専門の「多摩製作所」も設けられた。工場が別々につくられたのは陸海軍が対立関係にあったためだ。両工場の間は塀で仕切られていたが、戦況が悪化した1943年、合理化と増産のため統合され「武蔵製作所」になった。

 ▽麦畑に立ち並ぶ煙突、鳴り響くエンジンのテスト音

 工場では最盛期、5万人近くが従事したとされる。「勤労動員」として周辺約40の学校から集められた10代の学生も多く、ゼロ戦などのエンジンを24時間体制で製造していた。
 当時16歳で勤労動員された矢島淑子さん(96)は「工場内はエンジンのねじを作る際に使うしょうゆ油でいたるところがべとべとしていた。機械で指を削ってしまうこともよくあった」と話す。エンジンは群馬の太田製作所などに運ばれ、機体に装着された。


爆弾の破片を手にする延命寺住職の中里崇亮さん=11月、東京都武蔵野市

  「麦畑の中にあった巨大工場を高いコンクリート塀が囲み、工場の煙突からはいつももくもくと黒い煙が昇っていた」
  こう振り返るのは武蔵野市にある「延命寺」住職の中里崇亮さん(88)だ。武蔵製作所の目の前にあるこの寺で育った中里さんは、「ガァ-」というエンジンのテストとみられる強大な音が今も耳に残るという。「寺の横の通りを朝に夕に、多くの従業員が列をなして歩いていた」。周辺には下請けの町工場も多かった。

 ▽脳に響く大音響、顔の肉をそぎ取らんばかりの爆風

 一方、戦争が長引くにつれ、日本軍は各地で劣勢を強いられるようになっていた。1944年7月、「絶対国防圏」の一角としていた北マリアナ諸島のサイパン島が陥落。日本本土は、米軍が誇る超高性能の大型戦略爆撃機「B29」の攻撃圏内に入ることになった。
 この時、真っ先に標的とされたのが航空機エンジンの国内シェア3割を握っていた中島飛行機の武蔵製作所だった。


中島飛行機武蔵製作所があった場所の地図

 1944年11月24日昼過ぎ、サイパン島を飛び立った二十数機が武蔵製作所に来襲。工場などを空から攻撃した。
 ガラガラ、ダダーン! 当時、国民学校2年生だった中里さんは下校途中に響いたごう音に驚き、生け垣にもぐり込んだ後、防空壕に慌てて身を隠した。「その時は空襲がどんなものか知らなかった」。何が起きているのかも分からなかったが、寺に戻ると付近の大木が倒れていた。爆風の衝撃と知り、武蔵製作所が攻撃されたことを理解した。
 戦後刊行された「東京大空襲・戦災誌」には、工場内の生々しい様子が貴重な証言として記録されている。
 空襲警報の発令は遅れ、昼休み中だった工場内は大混乱に陥る。「ガンガンという脳に響く音響とともに、ビュンビュンと爆風が顔の肉をそぎ取らんばかりに地下道を吹き抜けていく」「被爆者は黒焦げになり、彼らは少し離れた中島飛行機付属病院に収容された」


攻撃された中島飛行機武蔵製作所(米国立公文書館所蔵)

 この日の空襲による死傷者は130人を超えた。ただ高い位置からの攻撃だったため工場の破壊には至らなかった。そのため空襲はその後も繰り返され、1945年8月8日まで計9回に及んだ。死亡した従業員らは2百人以上とされ、付近の住民数百人も犠牲になった。
 勤労動員されていた矢島さんは、警報が発令されるたびに体中が油まみれのまま、工場の3階から非常階段を使って敷地の外にある防空壕へと駆け出したことを覚えている。

 ▽人々の戦争への認識を一変させた出来事
 「誤爆も多く、一般市民が多く巻き込まれた武蔵製作所への空襲は、人々の戦争への認識を大きく変えた出来事だった」。こう指摘するのは「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会」代表の牛田守彦さん(63)だ。
 近代以降の日本は、日清戦争や日露戦争などを戦ってきたが、戦地は多くの場合、国外にあった。牛田さんは「戦争は自分たちの身近で起こるものではないとの考えが当時は一般的だった」と言う。
 武蔵製作所への空爆をきっかけに、多くの市民が抱くことになった「恐怖心」は次第に現実のものとなっていった。米軍は、日本を早期に敗戦に追い込もうと軍需工場にとどまらず、無差別的な攻撃を本格化していった。
 1945年3月10日の東京大空襲では約10万人が死亡。地方中小都市への空爆はその年8月の終戦間際まで繰り返され、広島と長崎には原爆が投下された。

 ▽かつての標的、戦後は住民の反対を受けながら米軍宿舎に


中島飛行機武蔵製作所があった武蔵野中央公園=8月、東京都武蔵野市

 敗戦後、中島飛行機には生産停止命令が出された。武蔵製作所はその後、皮肉な運命をたどった。
 残された建物の一部は改修され、地元住民の反対運動を受けながらも米軍宿舎となった。敷地内には、学校やショッピングセンターも設けられ、「グリーンパーク」と名付けられた。中里さんは「かつて標的とした場所を自らの宿舎としてしまうことに驚いた」と振り返る。
 1970年代には米軍宿舎も廃止され、建物は全て取り壊された。今は広大な武蔵野中央公園に、説明板と工場地下道のコンクリート製の床面などが残るだけだ。
 「時がたつうちに、戦争の悲劇が忘れられてしまうのではないか」。延命寺では、戦争の風化を心配する住民たちから預けられた爆弾の破片などを保管している。犠牲者を供養する平和観音も建てられた。中里さんは「歴史を証明するものとして大切にしたい。若い人を戦場に送り出すことが二度とあってはならない」と語る。

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