「戦死は怖くない。それよりも、早く上官を殴り返したい」 精神主義と暴力に満ちた軍隊を生きた99歳元学徒兵の本音とは
47NEWS / 2024年12月24日 9時0分
父は太平洋戦争末期の沖縄戦を戦った陸軍大佐で、自身も学徒兵になった。軍国主義の真っただ中を生き延びた鍼灸師の塚本此清さん(99)は「戦争で死ぬのは怖くなかった。それよりも、早く昇級して上官を殴り返したかった」と苦々しげに振り返る。当時の上官は、こう言い放っていた。「(戦争に)負けると思わなければ、負けない」。そんな狂気のような精神主義に覆われた軍隊の中で、塚本さんたち学徒兵は理不尽な暴力に耐え続けた。(共同通信=武田惇志)
▽軍人教育のトラウマ
父の塚本保次さん(塚本さん提供)
塚本さんは1925(大正14)年、熊本県で生まれた。父・保次さんは陸軍士官学校を卒業した軍人で、幼少期に保次さんの転任に伴って和歌山県へ移った。
保次さんは当時、連隊区司令部勤めの士官。ぴかぴかに磨いた長靴を履き、馬に乗って司令部へ。営門を通るとラッパが吹き鳴らされる。そんな毎日だった。
だが戦前の軍縮の流れを受けて減員の対象となり、小学校での軍事教練の教官へと転任することになった。以前とは打って変わって、自転車をこいで学校へ通う生活へと様変わり。それが父の大きな不満の種だったと、塚本さんは言う。
「私は毎日、父に殴られた。殴る蹴る、水をかぶせる、縄で縛り付ける。それがトラウマになっちゃって。今でも中年の男性を前にすると、圧迫を感じるんです。女性は平気なんですが」
さらに、朝は最初に起きて飯を炊き、夜は親の布団を敷く。その上、試験の成績はトップを求められる。塚本さんが旧制中学3年になって父が単身で転任していなくなるまで、そんな日々が続いたという。
15歳の時、ラジオで太平洋戦争の開始を知った。当時は「こんな戦争するのか」という程度の感想だった。
中央大の予科に進学したころには戦況が悪化し、予科2年からは勤労動員の対象に。現在の東京都江戸川区平井にあった鋳造所の寮に入れられ、工場で重労働を課された。
「潜水艦の排水弁を作りました。もちろん、何を作っているかなんて指導者は教えてくれません。周囲からそれとなく伝わってきただけ。溶解炉に鉄鉱石を入れて、コークスと混ぜて。工場内はものすごい暑さで、みんなバタバタ倒れていく。それを1年間、やり通しました」
▽軍隊内の暴力
入隊当時の塚本さん(本人提供)
学生は労働力だけでなく、兵力としても動員された。塚本さんは1943年10月21日、明治神宮外苑競技場で、文部省主催の「出陣学徒壮行会」に参加。戦地へ向かう上級生を見送った。
「雨の中、東条英機が偉そうにしゃべってるのを聞いていた。戦争に勝てるなんて、この時点ではもう誰も本気で思っちゃいないですよ」
徴兵検査に甲種合格した塚本さんは1944年、入隊してすぐ伍長になれるという理由で、船舶特別甲種幹部候補生に志願した。塚本さんは説明する。
「以前から、もうこんな国で生きるのは嫌だと感じてたから、早く死んだ方がいいやって思って、それで船舶の部隊を受験した。飛行機よりも死亡率が高いと言われててね。ぐずぐず教育なんてやってないで、早く戦争行けって思ってた」
1945年1月、訓練施設があった香川県豊浜町(当時)に移動。初日こそ「体罰はしない」と言われたが、2日目から上官の暴力が始まったという。上官たちは、父親が陸軍大佐だった塚本さんに手を出すことはほとんどなかったが、同期生たちには一切遠慮なく体罰を与えた。
雪の中、服を全てはぎ取られる体罰もあり、1カ月で部隊の3分の1ほどが肺炎になって追い出されたという。食事は麦飯と、親指の先ぐらいの肉が入ったみそ汁だけで、「おなかペコペコ。そんな生活で毎日、訓練でツルハシかついで走らされた」。訓練で倒れた者も追い出された。座学では操舵法、気象学、モールス信号や手旗信号などをたたき込まれ、試験を通過できた者だけが残ることができた。
とりわけ苛烈だったのが、1学年先輩だった区隊長。私大出身で、雨の明治神宮外苑を歩いた学徒兵だった。塚本さんは苦々しげに振り返る。
「これが徹底した精神主義でね。『負けると思わなければ、負けない』『一億玉砕だ』ってことばかり言う。何を不合理なこと言ってんだと思ったね」
6月、塚本さんたちは軍曹に昇級。同月、沖縄が陥落したという情報が流れると、隊の1人が「これで日本は負ける」と口にした。すぐに何者かが区隊長に密告し、寝床からたたき起こされた。そのまま、向かい合わせで殴り合いをさせられたという。
あと数カ月もすれば、ここを卒業して見習士官になれる。そうしたら、自分たちを散々殴ってきた下士官たちに対し、殴り返せるようになる。塚本さんたちは、そんなふうに自分たちを励まし合った。
「戦争で死ぬことは怖くなかった。それよりも、こいつらを殴り返したいって気持ちの方が強かったんです」
そんな中、同期生たちとは「俺たちは何のために死んでいくんだ?」という議論になった。哲学者カントの読書サークルを秘密裏に組織し、勉強会を開いていたという。「カントは平和主義だから。みんな、『俺たちは天皇のために死ぬんじゃない。もし日本が米軍に占領されたらどんな目に遭うか分からないから、そのために死ぬのはしょうがない』って話になった」
▽切腹未遂と泥棒集団
塚本此清さん
7月、兵舎として使われていた高松市の小学校に移動。4日早朝、塚本さんは見習い小隊長として寝ずに報告書を書いていたところ、突然、隣の部屋のガラスが割れる音を聞いた。高松空襲の始まりだった。
「様子を見に行くと辺りが燃えていて、みんなを起こした。将校も下士官もどこに行ったか分からない。仕方ないから隊を練習時のように編成して逃げた」
すでに校舎の上まで火が回っていた。校庭一面も火の海で、逃げる余地がない。練習用に備蓄された弾薬が爆発する恐れもあり、一刻の猶予もなかった。毛布を持ち出して焼夷弾の炎をはたきながら、校庭を脱出した。暑さの中、群衆とともに塩田へと逃げた。塩田からは、B29が機雷を瀬戸内海へ落とす音が聞こえてきたという。
翌朝、校舎に戻ると、焼夷弾で小銃の先がつぶれた隊員がおり、上官から散々殴られていた。
その後しばらくして、軍刀や長靴を買わされた。塚本さんたちは「いよいよ卒業か」と喜んだ。しかし8月になっても音沙汰がなく、いぶかしんでいたところ、15日に「ラジオ放送があるから集まれ」と招集された。いわゆる玉音放送だったが「ガーガー音がするだけで何言ってるか分からなかった」
翌日、海軍機が飛んできて「政府は降伏したがわれわれは降伏しない。戦おう」と戦争継続を呼びかけるビラがまかれた。その翌日にも「まだ戦争しているから続けるように」と伝えに来た飛行士がいた。だが数日後、ついに皇族から「戦争をやめるように」と連絡があったという。
すると区隊長は、隊員たちにこう迫った。
「こうなったらしょうがない。天皇陛下におわびして切腹しよう。賛成の者は手を挙げよ」
隊員たちは皆、顔を見合わせながら手を挙げた。塚本さんも最後になって渋々、手を挙げたという。全員、兵舎に戻り、買わされた軍刀を手にした。
「でも、いざ振ってみても全然切れない。そのころの軍刀なんて、なまくらだったんですよ。昔の立派な日本刀なんかじゃない。みんなして『こんなもんで切れるかよ』って叫んでね。結局、誰も本気じゃなかったんです」
区隊長はまた、もし米軍が天皇制を廃止したら「宮城前で決起しよう」と豪語し、そのために今から鍛えておこうと隊員にマラソン訓練を強制した。走っているうちに水虫がうんで足が痛み出した塚本さんは、ついに反抗の言葉を口にした。「もう、ばかばかしくなってね。『水虫ができたから走るのやめます』と伝えた」。すると区隊長は「おまえはなんだ。おまえみたいなのがいるから、負けたんだ」と激高。これまで殴られなかった塚本さんも、ついに殴られたという。
一方、他の部隊は隠匿物資を盗むのに夢中になっていた。「倉庫には新品の靴や服、米俵、それに砂糖まで隠されていて驚きました。それを船やトラックに乗せて持っていく。泥棒集団ですよ」
塚本さんの隊の解散時には、積もりに積もった区隊長への恨みから「船の中で毛布をかぶせてボコボコにしよう」という話が持ち上がった。「でも、船にはまだ憲兵がいて、捕まったらばからしいって話になって結局、やらなかった。他の隊では、上官に歩兵銃を突きつけたところもあったようですね」
その後、塚本さんは東京に帰って中央大に復学。「資本論」など、かつての発禁本が自由に読めるような時代になったのを喜んだ。
▽父の運命
保次さんと八原大佐が残した沖縄戦史資料のコピー(塚本さん提供)
その間、父・保次さんの生死は不明なままだった。
実は、6月23日の第32軍司令官・牛島満中将の自決後、「祖国のため最後まで敢闘せよ」という司令官の命令に従い、保次さんは沖縄本島南部の洞窟に潜伏していた。芋や米兵の残飯などを盗みながら命をつないだという。
通信技術の専門で航空情報隊の隊長だった保次さんは、終戦への動きも電波を傍受して察知していたとみられるが、8月17日になって安全を確かめながら米軍に投降。その際に米軍将校から、降伏を拒み続けている部隊への説得を依頼された。亡くなった牛島中将に代わり、第32軍司令官となって投降を勧告しろというのだ。
上原正稔「沖縄戦トップシークレット」(沖縄タイムス社)によると、保次さんは「おこがましいが、友軍を救うためならどんなことでもしよう」と返答。8月19日に渡嘉敷島と阿嘉島の部隊に対し、「誠に残念であるが、天皇陛下の命令に服し、連合軍に降伏することが日本軍の義務である」と私信を送り、投降へと導いた。
米軍の捕虜収容所では高級参謀・八原博通大佐と再会。八原大佐から依頼され、沖縄戦についての記録を残すための収容所内での聞き取り活動に協力した。
塚本さんによると、保次さんはその後の復員時に、司令官就任についてとがめられ、階級を中佐に落とされたのだという。戦後は収容所で覚えた俳句を支えに生き、80代で亡くなった。
「『最後まで敢闘せよ』と命じながら、司令官が自決した。そのとき、父はどういう気持ちだったのか。『こんちくしょう』と思っていたんじゃないか。司令部がなくなっちゃったのに、兵たちには自分たちだけで戦えなんて、勝手すぎる。だから父は米軍と戦わず、部下とともに隠れながら命を永らえることを選択したんじゃないかと思います」
塚本此清さん
塚本さん自身は大学卒業後、就職先で労働組合活動に参加。米軍の占領政策を批判して当局に目をつけられたこともあった。そんな戦後の荒波を経て、40代で鍼灸師の道へ。昨年まで現役で働いたという。
振り返ってみれば、父子ともに“軍隊”に左右された日々だった。そんな塚本さんにとって、軍隊とは何だったのだろうか。記者が尋ねると、塚本さんはこう答えた。
「あんな嫌なところはないよ。早く戦争に行って死んだ方がいいやって、そう思ってたね」
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