1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

ちゃんこ場で力士と過ごす九州場所、年に一度の「大将」は琴桜初優勝に「うれしかです」 料理人と佐渡ケ嶽部屋、ふぐがつないだ30年超の縁

47NEWS / 2024年12月17日 9時30分

気合の入った表情で力強く塩をまく琴桜=2024年11月、福岡市博多区の福岡国際センター

 2024年11月の大相撲九州場所で悲願の初優勝を遂げた大関琴桜が所属する佐渡ケ嶽部屋には、年に一度の「大将」がいる。博多駅近くで老舗のふぐ料理店を営む柿川信登さんは九州場所限定で部屋宿舎の調理場に立ち、時に泊まって力士たちと一緒に生活。「今年は特に“うれしか”です」。気が付けば30年以上もの月日が過ぎていた。(共同通信=田井弘幸)

 ▽ふぐが結んだ縁で番付に「ちゃんこ長」


九州場所の佐渡ケ嶽部屋の稽古場には師匠や親方衆、全力士らとともに「料理長 柿川」の木札が掲げられている=2024年11月、福岡市東区

 福岡市東区西戸崎に構える佐渡ケ嶽部屋の九州場所宿舎。親方らの他、力士の番付や名前が書かれた稽古場の木札の最後に「ちゃんこ長 柿川」がある。どこの相撲部屋にも木札はあるが、マネジャーを含めた部屋の一員以外の人物が掲げられるのは極めて珍しい。親しみに遊び心を加えた待遇で、琴桜の父で師匠の佐渡ケ嶽親方(元関脇琴ノ若)は「大将はうちの部屋の人なので」とほほ笑む。


自らの木札が掛かった稽古場の前に立つ柿川信登さん=2024年11月、福岡市東区の佐渡ケ嶽部屋宿舎

 1950年11月28日生まれで74歳の柿川さんは、ふぐが大好物の佐渡ケ嶽親方が現役だった24歳の時に出会った。今年で開店45年になる「九一郎」に週3度のペースで来店してくれたお返しにと、当時は福岡県久山町にあった部屋宿舎へ差し入れを届けに行った。
 すると下関唐戸市場のふぐが別で差し入れられていた。さばける人が誰もおらず「私がやりましょう」。この日を境に部屋のまな板の前に立ち始めた。当時の師匠で元横綱琴桜の鎌谷紀雄さん(故人)と佐渡ケ嶽親方の温かい人柄、部屋の活気ある雰囲気に魅了されたからだった。

 佐渡ケ嶽部屋には、かつて悲しい出来事があった。九州場所の1963年11月、部屋のちゃんこで18歳の力士2人がふぐ中毒で死亡。この教訓から現在の師匠は「うちの部屋はふぐで大変なことがあったので…。あの日は大将にお願いするしかなかった。こちらが差し入れのお礼をしなければいけないのに、快く引き受けてくれた」と話す。ふぐが縁を結んでくれた。

 ▽毎月2度の宿舎通いで「みんなを待っとるんです」


元横綱琴桜の鎌谷紀雄さん。先代師匠は厳しくも優しい人柄で周囲から慕われた=2006年5月、東京都内

 当初は店の準備と並行し、柿川さんは1、2時間程度の手伝いだった。先代師匠に「九一郎さん、ここには来ちゃいけないよ。お店があるんだから、ちゃんこ場に入っちゃいけないよ」と言われた。こういう気遣いが逆に背中を押すもので「『無理はしませんよ』と言いながら、いつの間にか幕下の大部屋の真ん中で寝ていた」と懐かしむ。先代師匠が生前に柿をむいていた包丁は、今も大事に使っている。

 2015年から現在の部屋宿舎に移転した頃には、関係性はさらに深まった。
 年に1度しか使用しない常設の建物をきれいに維持するため、柿川さんは11月を除く毎月1日と15日には宿舎へ出向き、全ての窓を開けて風を入れる。稽古場の土俵に水をまき、上がり座敷を磨く。神棚の榊を入れ替え、周辺の草むしりもするという。「西戸崎まで車で1時間、掃除で1時間、店まで帰って1時間。こうやって、みんなを待っとるんです」

 九州場所番付発表に合わせ、部屋の全員が下旬に福岡入りする10月は、さらに気合が入るという。今年は第1日曜日に仲間と出向き、いつもの作業より範囲を広げての草刈りを行った。力士のぼりを立てるスペースにまで伸びた木は、専門業者に伐採してもらった。処理した草木の分量は2トントラック2台分。稽古場の木札にはカンナをかけ、10本以上もある自身の包丁も入念に研いだ。

 ▽アラはさばくも、ちゃんこ鍋は「触らない」


九州場所で佐渡ケ嶽部屋が拠点とする福岡市東区の宿舎(のぼりの奥)=2024年11月

 柿川さんは長崎県雲仙市に生まれ、料理人を志して15歳から大阪で修業した。18歳の時に博多でふぐの道に入り、30歳を前に「九一郎」を開店。祖父の名前を付けた。

 ちゃんこ場では、プロの料理人ならではのこだわりを持つ。「お相撲さんの鍋には一切触らない。あの味は出せない」。ちゃんこ鍋は10種類以上と豊富な上に量が計り知れず、汗をたっぷりとかいた稽古後に食べる鍋は味が濃いめになる。全てが一般とは異なるため、ちゃんこ番の力士に聞かれれば答えるが口出しはしない。「一歩下がってお手伝い。出しゃばらないのが長続きの理由です」


佐渡ケ嶽部屋宿舎のちゃんこ場で若手力士に包丁さばきを教える柿川信登さん(左)。蒸した豚肉を鮮やかにさばいた=2024年11月、福岡市東区

 日々の献立も助言こそするが、基本的には決められたメニューに沿って作る。魚や肉の料理から炒め物や煮物、ポテトサラダ、ギョーザなど何でもできる。今年は福岡ならではの魚でアラ、ブリ、カンパチ、タイを見事にさばいた。朝5時半に市場で本業のふぐを仕入れてから部屋に来る日もあれば、泊まる日もある。宿舎には専用の「大将の部屋」が設けられている。

 ▽史上屈指の苦労人、元十両琴国との絆


初土俵から所要89場所で史上2位のスロー新十両を決めてガッツポーズの琴国。柿川さんには息子のようにかわいがられている=2008年11月、福岡県久山町の佐渡ケ嶽部屋宿舎

 「九一郎」には横綱貴乃花も訪れたことがあった。土俵でなかなか勝てなかった佐渡ケ嶽親方は現役時代に「横綱がふぐ刺しを7枚食べたと聞いたら『じゃあ俺は8枚。相撲で負けるなら、こっちで勝つ』と8枚目を注文した。さすがに大将に止められた」と笑う。

 師匠がいつも一緒に連れてきた付け人で、岡山県出身の琴国(本名・作田幸寛)という力士がいた。幕下生活が長く、最高位は十両で通算4場所在位。2014年初場所限りで引退した。初土俵から所要89場所での新十両は史上2位のスロー昇進で、屈指の苦労人でもあった。陰日なたない努力と誠実で礼儀正しい人間性は誰もが認め、師匠は「うちの力士みんなが作田の背中を見ていた」と言うほどだ。
 柿川さんも作田さんの人柄にほれ、出会った19歳の頃から46歳となった今も親子同然の絆は変わらない。2008年九州場所で新十両昇進を手中に収めた一番は福岡国際センター2階席で観戦。勝った直後に駆け降り、花道を引き揚げた琴国と号泣して抱き合った。記者として、この現場にいた私も胸を打たれたほどで「琴国さんの父親ですか?」と確認した人もいた。

 部屋宿舎で柿川さんは大勢の力士たちと一緒に風呂にも入る。幕下以下の力士が「大将、背中を流しますよ」と言うと即座に断り「その時間があれば早く風呂から上がって休んでよ。その代わり、関取になったら私に背中を流させてね」と励ましている。実際に十両昇進を決めた琴国とは背中を流し合った。

 現在は会社員をしている作田さんは「大将は自分の親代わり。曲がったことが嫌いで義理を重んじ、筋が1本通った人です」と感謝する。柿川さんら有志から贈ってもらった宝船の図柄の化粧まわしは生涯の宝物だ。

 ▽琴桜初優勝を願ったタイ、内緒で冷蔵庫に…


九州場所で初優勝を果たし、祝勝会でタイを手に喜ぶ琴桜。右は父で師匠の佐渡ケ嶽親方、左は母でおかみさんの真千子さん。タイは柿川さんが取り寄せた=2024年11月、福岡市内

 琴桜が初優勝を決めた九州場所千秋楽では、お祝いのタイの立派さが話題となった。今まで見たことのないほどの大きさで、重さは約8キロ。大関豊昇龍とデッドヒートを繰り広げる13日目に柿川さんが願いを込めて福岡魚市場で仕入れ、琴桜には内緒で冷蔵庫に保管していた。このタイは千秋楽翌日の部屋のゴルフコンペ後、約100人分の南蛮漬けになったという。

 幼少の頃、琴桜は九州場所の時期になると、両親のいる久山町の部屋宿舎から近所の幼稚園に通った。柿川さん手製の弁当は、ふぐの唐揚げが入った日もあった。「自分にとって大将は九州のおじいちゃん。あのお弁当はうまかった。これからもずっと一緒です」と笑みを浮かべる。くしくも福岡の地で初の栄冠を届けたことは最高の恩返しになった。

 九州場所が幕を閉じて12月に入ると、部屋宿舎には誰もいなくなった。「場所後の1週間の休みが終わり、みんなが帰ると本当に寂しい。逆に秋になり、今から来ると思うとわくわくする。毎年毎年、その連続です」。柿川さんは空っぽになった心の中を埋めるように、また1年後に向けて海からの風を入れる。そして琴桜は年明けの初場所で横綱昇進に挑む。季節とともに歩む大相撲ならではの風景が脈々と流れている。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください