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400本塁打超えの強打者がポツリと言った「基本的にバッティングは嫌いなんです」・中村紀洋さん  プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(45)

47NEWS / 2024年12月28日 9時30分

2007年10月、日本ハムとの日本シリーズ第4戦で中前適時打を放つ中村紀洋さん。シリーズMVPに輝く活躍だった=ナゴヤドーム

プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第45回は中村紀洋さん。豪快なスイングで通算404本塁打を放ったスラッガーです。大きな放物線を描く打球に興味を抱き続けていましたが、一つの移籍をきっかけに「ホームランは要らない」との心境に至ったそうです。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽キャンプのメニューは打、打、打 


1991年12月、近鉄の新人入団選手発表で写真に収まる中村紀洋さん(右から2番目)=大阪市内のホテル

甲子園は小学生の時に、よく観戦した球場。阪神のバックスクリーン3連発(1985年)ですか? バックネット裏で見てました。ものの見事でしたね。バース、掛布雅之さん、岡田彰布さん。やっぱりホームランは雰囲気を変える。ヒットじゃ変えられないです。そういう選手になりたいと思って、ずっとホームランに憧れました。現実になったのは、大阪・渋谷高で甲子園行きを決めた決勝戦(90年夏)での2本。あれで空気がぐっと変わった。プロでもそうしたいなと思っていた。逆にね、打率を上げると考えたら、長く野球ができてなかったかもしれないです。結果が出ず、すぐ2軍に送られるみたいになって、5年ぐらいで終わってたかも。フルスイングで(キャリアを)築き上げて良かったなって思います。

プロ入りはイチローが一緒の年(92年)でした。彼には安打で絶対負けるんで、僕は豪快なスイング、遠くに飛ばすことで目立ちたかった。水谷実雄さん(94、95年に近鉄打撃コーチ)の時はキャンプでバッティングばっかり。一言で言うと、しんどかったです。毎日ずっと朝から晩までバット振って、合間を見たら(外野を広く走らされる)アメリカンノックです。だから内野守備をする機会がなかったですね。キャンプ前に新しいグラブが届くじゃないですか。使うのはキャッチボールだけなんですよ。ほぼバッティングしてたんで、オープン戦に入ってもカチカチ(グラブが硬いまま)。大体は打、守、走と項目が分かれてるんですけど、僕らの場合は打、打、打ですから。


1995年にレギュラーに定着した中村紀洋さんは7月のオリックス戦で適時打を放つ=神戸

4年目からレギュラーです。金村義明さんがFAで移籍したんです。その時から正三塁手で出たんですけど、18個エラーしました(遊撃手での1個を含む)。ほとんどは送球エラー。後逸したとか本当のエラーは2個だけなんです。16個は送球ミス。練習したことない。守備はするけど、シートノックぐらい。9割がバッティング、1割が守備です。それじゃうまくならない。これじゃまずいと思って(割合は)逆転しました。バッティングはもう十分やっただろうと思ってたんで。 

 ▽阪神ファンはすごく集中してプレーを見ている 


2001年9月のダイエー戦で本塁打を放つ中村紀洋さん。132打点で2年連続打点王となったシーズンだった=大阪ドーム

本塁打は狙わないと打てないと思ってます。僕は「ヒットの延長がホームラン」はないと思うんですよ。ライト方向にヒットを打ちにいって、スタンドへは絶対入らないんで。ある程度、力を入れてスイングをした中で、当たればホームランっていうイメージ。それでミスショットしたのがヒット。全球、ホームランを狙ってました。ストライクでも打てないボールは見逃す。打てそうなコース、高さは手を出して狙ってました。(2000年は39本塁打と110打点で2冠)30本は打ちたいと思った。30本の壁ってのは、すごく分かったんですよ。19本から20本は簡単。29本から30本っていう、その壁が味わいたかった。

01年の46本塁打はローズのおかげです。ローズと競い合ってたというか、僕が打つことによって(3番ローズと)勝負せざるを得ない状況をつくらないと駄目だと思ってたので。(5番の)礒部公一も打ってくれたから(4番の中村さんと)勝負せざるを得ない。そういうかみ合わせが、うまく回った。もともとは僕が3番だったんですよ。ローズが4番。礒部のところまで右打者、左打者、左打者なんですよね。だから、僕が終わったら左ピッチャーが出てくる。それを当時の梨田昌孝監督が嫌がって入れ替えたんです。
 
プロに入ってホームランの気持ち良さを一番味わったのは阪神戦。カーンって打球が上がるでしょ。すると、大観衆から「おっ」って声が聞こえるんです。そして1、2秒の間、シーンとなる。これが気持ちいいんです。それで5万人が「あーあ」ってなったらホームラン。拍手が起こればアウトです。あの沈黙の1秒、2秒と5万人のため息は甲子園だけ。阪神ファンは特に集中してプレーを見てるんですよ、やっぱり。甲子園は意外と(大阪市出身の)僕のファンが多かった。声を結構かけられたりしてたんですよ。「ノリさん、打ってもええけど、試合は勝たしてくれ」っていうのが多かった。 

▽戦闘機がセンター後方から飛んできた


small2005年4月、本拠地開幕戦で初先発したドジャース時代の中村紀洋さん=ドジャースタジアム

04年の球界再編がなければ、アメリカには行ってないですね。近鉄があれば、ずーっと近鉄です。でも、トップ同士の話で再編になり、ファンの気持ちを考えた時に、どっちを応援するのと。再編チームには今まで敵のチームで頑張ってた人がいる。これはおかしいやろって。僕はオリックスに決まってた。でも、誰か一人でも反旗を翻さなあかんのちゃうかなと思って。これはもう悪者でいいから、言うことは聞きませんと。2年間ぐらい修行してきますって話してアメリカに行ったんです。別に僕はメジャーに興味はなかった。FA宣言をした時に、近鉄に骨をうずめようと思ってたんですよね。ところがどっこいですよ。 
 
僕の野球って楽しいから始まってるんですよね。でも、4番を打って仕事に変わってる部分があったんです。そこでアメリカに行った時に野球の楽しさを学べた。それまでは本当にやらされてる感があったんです。向こうに行くと、自分でやらない限りは誰も認めてくれない。すぐ契約打ち切りになってしまう。築くっていうことをすごく学んだ。やっぱり好きじゃないとできないなと。自分なりに昔の映像を基に、いろんなことを試せた1年。バッティングをもう一度探るというか、試行錯誤できました。原点に戻れた時間が05年です。 
 
アメリカでの唯一の功績はドジャースの本拠地開幕戦で、スタメンで出たっていうこと。あの雰囲気は今でも覚えてます。(セレモニーで)戦闘機がドジャースタジアムのセンター後方から、ぐわーって飛んで来るんですよ。いや、これはすごいな、日本にはないなと思った。 
 
帰国して、オリックスの後で中日に行った時に、もうホームランは要らんと思ったんですよ。落合博満監督に動いていただいて育成枠で入らせてもらった。まず勝たなくちゃいけない。邪魔したらあかんと。打つやつはいっぱいおる。今までの4番の感覚、打たなくちゃ負けるという視点が、もうゼロなんですよ。だからホームランに全く興味がなかったです。走者がいたら、かえすか、もしくはカウントが不利になったら次の塁に進めていく。そして次の打者に任せたらいいやって。それで日本一になってMVPが取れた。ドラゴンズ時代は財産というか、自分の野球にとって、すごく次に生きる2年間だったです。強いチームで野球をできた。弱い野球も分かってる。どうしたら弱くなるか、強くなるためにどうしたらいいかを、ドラゴンズで分からせてもらいました。 
 
 ▽150キロの球を打つのは面倒くさい 


プロ野球最終年となった2014年の4月、巨人戦で先制打を放つ中村紀洋さん=サンマリン宮崎

 
(ポジションは)サードのこだわりが、すごく強かったんです。09年は一塁手に回る情報が出まして、森野将彦をサードで使いたいんかなと。僕が中日に入った時も内野手の森野が外野に回っていた。いずれは内野だろうなと。でも、僕自身がまだファーストは嫌だ、そういう年齢じゃないと、こだわっていました。その時に楽天の野村克也監督から連絡をいただいて「うちに来い。サードで使うぞ」って言われて移籍したんです。ずっとサードを守りたかった。

僕は守備が大好きだったんですよ。守備練習をしていたいんです、ずっと。来た球を捕りゃいい。そっちの方が楽しいですよね。基本的にバッティングは嫌いなんです。150キロとか打つの面倒くさいでしょ。今は160キロの投手もおるわけじゃないですか。それを打ち返さなあかんのですよ。そんな大変な仕事、ないんです。大谷翔平のスイーパーとか大変ですよ、打つ方は。でも、打たないとしょうがなかった。バッティングは目立つから、みんなの目がいくんです。僕の考えでは、守備がうまくないと試合に出られないと思ったんですが、打撃が良ければ守備が下手でも使ってくれてたんですよ。
 
(13年に)DeNAで400本塁打をぎりぎり超えましたね。良かったです。2千安打と400本は、なかなかいないやろうなと。プロ野球の歴史の中で20人以内に入れる。通算成績を見たら、よう頑張ったなと思います。

 ×  ×  × 


small中村紀洋さんは浜松開誠館高の野球部コーチにも就任=2024年2月撮影、浜松市内

中村 紀洋氏(なかむら・のりひろ)
大阪・渋谷高からドラフト4位で1992年に近鉄入団。2000年に本塁打と打点の2冠。01年は2年連続打点王でリーグ優勝に貢献した。オリックスとの合併で近鉄が消滅し、05年は米大リーグのドジャースに挑戦。翌年に日本へ戻り、07年は中日で日本シリーズ最高殊勲選手に選ばれた。名球会入り条件の日米通算2千安打は13年5月に達成。プロ野球通算2101安打、404本塁打。1973年7月24日生まれの51歳。大阪府出身。

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