被爆から80年を前に、亡き姉の手記で知った「命の恩人」 「核兵器を見たり感じたりしていない私」が平和活動を続ける理由【授賞・ノーベル平和賞】
47NEWS / 2025年1月17日 9時0分
80年越しに命の恩人の正体を知った。生後9カ月に広島で被爆し、その時の記憶はない。他人を助ける余裕など誰にもあるはずのない地獄絵図の中、たまたま近くにいた「神様のような男の人」が助けてくれたと思ってきた。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の一員として、2024年12月10日のノーベル平和賞授賞式に出席した元音楽教員の金本弘(かなもと・ひろし)さん(80)=名古屋市=は2024年6月、亡くなった姉の手記を初めて読み、「真実」を知った。
一方、授賞式に出席した代表団の最年少は、長崎の被爆3世で平和教育に携わる林田光弘(はやしだ・みつひろ)さん(32)。「思いが次世代に受け継がれている一つの例として示したい」と願う。(共同通信=黒崎寛子、中西慧)
▽口からガラス破片を取り出して、息を吹き返すまで頰をたたき続けてくれた
オスロ大学で被爆体験を証言する金本弘さん=2024年12月11日
1945年8月6日の朝、当時15歳だった金本弘さんの姉の妙子(たえこ)さんは、赤ん坊の金本さんをおんぶしておつかいに出かけ、汽車の切符を買う列に並んでいた。爆心地から約2・5キロの己斐駅。ぐずる弟を背中から下ろし、列車を見せようとした瞬間「ピカー!」と強烈な光とごう音に襲われ、気を失った。
妙子さんが崩れた駅舎のがれき下からはいでて見つけた金本さんは真っ赤な血だらけ。死んでるかもしれない。「助けて、助けて」との叫びに応じた男性が、金本さんの顔を防火水槽に出し入れし、口からガラス破片やがれきを取り出し、息を吹き返し泣き出すまで頰をたたき続けてくれた。
いつも泣きながら話した妙子さんに、金本さんはこれ以上の詳細を聞くことはできなかった。妙子さんが2023年11月に亡くなったのを機に、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に姉が手記を寄せていたことを知った。手元に届いたコピーには自分を助けたのが「父」だと書かれていた。
金本弘さんの姉妙子さんが残した手記
原爆投下から2年後に死亡した父の記憶はほぼなく、姉がなぜ「恩人」が誰かを明かさなかったのかも分からない。だが、肉親でもないのにそこまでできる人がいるのかと不思議だった長年の疑問は氷解した。「被爆した父も苦しかったはずなのに…。地獄みたいな所でも娘と息子が命乞いしていれば助けに行くのが父親なんだろうね」と涙で声を詰まらせた。
▽家族を苦しめた原爆。闘病26年の姉が最期に残した言葉
オスロ大で行われた被爆体験の証言会で金本弘さん(手前)らに拍手を送る人たち=2024年12月11日
原爆は戦後も家族を苦しめた。11人きょうだいのうち、当時12歳の姉の千代子(ちよこ)さんは爆心地から約1・5キロで被爆。左半身を焼かれ、ケロイドが残った。「千代子は死ぬ」と家族は、結婚も出産も反対。30歳で結婚しても、誰も喜ばなかった。
26年間の透析、肝臓がん、肺がんの末、86歳で他界した。最期に「言えるなら、娘時代をまどうて(償って)ほしい」との言葉を残して。ケロイドに向けられる世間の目は冷たく、就職で差別も受けたが気丈だった姉。「でも負った心の傷は想像以上に深かった」
終戦80年を目前に、父の必死の愛を知り、平和賞受賞も決まるといううれしい出来事が重なった。授賞式が開かれたノルウェーの首都オスロへの出発前には「被爆し、一年中高熱が出るなど病弱で苦しかったが、生きているという楽しさも味わった」と笑みを浮かべた金本さん。賞が、世界で続く戦争や核兵器問題に若者が関心を向けるきっかけになればと願う。「父に救われた命。私が生きた平和な80年を次世代に渡したい」
▽被爆者の「生半可ではない覚悟」に触発され、平和活動に
被爆3世の林田光弘さん=2024年11月、長崎市
ノーベル賞委員会は、被団協に平和賞を授与する理由の中で、新しい世代が経験の継承に取り組んでいることに触れた。核兵器廃絶を訴える署名を国連に届ける「高校生平和大使」として活動していた林田光弘さんの転機は2010年。核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせ渡米した際、直前に亡くなった語り部吉田勝二(よしだ・かつじ)さんの代役として紙芝居を上演した。
活動を続ける中で多くの被爆者の「生半可ではない覚悟」を目の当たりにした。谷口(たにぐち)稜曄(すみてる)さん(2017年死去)は弱音を吐きながらも一日に複数回の語り部を引き受けていた。連合国軍捕虜収容所の慰霊碑建立にも尽力した井原(いはら)東洋一(とよかず)さん(2019年死去)は亡くなる直前まで「加害の歴史にも向き合うことが和解につながる」と病床で訴え続けた。
林田さんはそうした姿を「ただ原爆を恨むのではなく、新たな被爆者を生まないために自らを奮い立たせていた」と振り返る。多くの被爆者に触発され、平和活動にのめり込んでいった。
▽一人でも多くの人に、被爆者と出会ってほしい
被爆者の田中安次郎さん(右)の話を聞く林田光弘さん=2024年10月、長崎市
東京の大学と大学院で安全保障などを学び、今は一般社団法人代表理事として、長崎を拠点に平和に関する「出前授業」やイベントの企画に取り組む。
自身の経験を踏まえ、少人数の座談会などで若い世代が被爆者と直接語り合う場を増やしたいと考えている。「一人でも多くの人が出会う機会をつくるのが、たくさんの被爆者とつながってきた自分の使命だ」と語る。
2016年に始まった全ての国に核兵器禁止条約参加を求める「ヒバクシャ国際署名」の広報役を担うなど、被爆者と共に核廃絶を訴えてきた林田さん。オスロでは現地メディアのインタビューを被爆者らと受けた。
核兵器を見たり感じたりしていない私が、被爆者と出会い、平和活動を続けている―。そう伝えることが大きな意味を持つはずだと確信している
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