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一流ぞろいの侍ジャパンでも選手に寄り添うことが大事・稲葉篤紀さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(46)

47NEWS / 2025年1月21日 9時30分

2014年9月、このシーズン限りでの引退を表明し、打撃練習で笑顔を見せる稲葉篤紀さん=札幌ドーム

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第46回は稲葉篤紀さん。ヤクルトと日本ハムでの20年間で2167安打。2008年北京五輪と2度のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表でも活躍しました。21年東京五輪金メダルの侍ジャパンをいかに形づくったか、当時の代表監督としての考え方も披露してくれました。(共同通信=栗林英一郎)

 ▽大きかった新庄剛志さんとの出会い


1994年12月、ヤクルトの新入団選手発表会に臨んだ稲葉篤紀さん(後列左端)。前列右は野村克也監督=東京都港区のヤクルト本社

 ヤクルトでは野村克也監督の野球を教えていただきました。ちょうどチームが強い時期で、また先輩方が良かった。いい見本がたくさんいたので、私は付いていくという感じ。朝から晩まで野球漬けというか、シーズンに入ってもそうでした。休みの日にもバットを振ったり練習したり、若い時にしかできないことってたくさんあるので、それがあるから私は長く現役ができました。けがもたくさんしましたけれど、それだけ野球に打ち込んでいたので。けがとは上手に付き合いました。これで休んだらレギュラーを取られてしまうから、このけがだったらまだできるとか「けがを知る」ことをヤクルトの10年間ですごく経験したと思います。


2001年5月の巨人戦で2ランを放つ稲葉篤紀さん。初のベストナインに選ばれるシーズンとなった=東京ドーム

 その10年間を土台として、日本ハムに移籍して芽が出ました。ファイターズに入ると後輩ばっかり。自分が先頭になってやる立場に少しずつなっていき、責任感がとても出てきました。新庄剛志さんとの出会いも大きかったと感じています。私はどっちかといったら、打てなかったら打てなかったことに対してずっと悩んで、切り替えが上手ではなかった。日本ハムのチームカラーもそうですが、新庄さんと出会って、切り替えという部分でうまくできるようになってきました。ファイターズでは移動が全部飛行機になり、休む勇気を覚えました。移動日はゆっくり休む、オンとオフの切り替えです。疲れを取るために体のメンテナンスもしながら、がむしゃらだけではなく、うまく調整できるようになりました。

 技術的には、変化球を待ちながら真っすぐを打てるようになったんですね。みんな真っすぐをまずは捉えたいとか、基本的にストレート待ちで変化球に対応すると思うんです。これは究極なんですけど、ストレート待ちと同じタイミングで変化球を待つ。ストレートだったら、そのまま打ちにいけばいい。変化球待ちしているので結構「間」ができますから、変化球が来たら、その「間」で打てる。そういうものを習得していきました。あとは縦振り(縦のスイング軌道を意識した振り方)を覚えたっていうところ。変化球に対して横振り(水平のスイング軌道)をしてしまうとゴロになりやすい。縦振りを身に付けて変化球を打てるようになりました。

 ▽一流選手は結構孤独なもの


2007年7月のオリックス戦で本塁打を放つ稲葉篤紀さん。このシーズンは首位打者と最多安打のタイトルを獲得=スカイマーク

 長い目で見れば、私は北京五輪の予選、07年から侍ジャパンに関わり、年月をかけて選手との関係性を築いていきました。坂本勇人とは13年WBCで一緒に現役で出場しています。小久保裕紀監督の時は4年にわたって打撃コーチをさせていただいた。コーチ時代、監督時代と選手とのコミュニケーションを取って、一つのチームをつくっていくというやり方をしました。

 東京五輪でキャプテンを置きませんでしたが、選手は責任感を持って臨んでいたと思います。いろんなことを言い合い、ベテランとか若手とか関係なく、みんなでチームづくりをしてほしいなというのがあったので、主将をつくらなかった。勇人とか菊池涼介、田中将大、そういう選手が背中で引っ張ったというか、率先して先頭に立ってやってくれました。


2009年3月、WBCの韓国戦で送りバントを決める稲葉篤紀さん=ドジャースタジアム

 監督はプレーヤーではないので、先頭になってやるというわけにはいきません。選手の気持ちを分かってあげられると思っていたので、会話はたくさんしました。調子の良い選手と悪い選手、五輪に入っても結果が出ている選手と出ていない選手、試合に出ている選手と出ていない選手が、どうしてもいました。その中で選手の立場、気持ちをしっかりと私の中で考え、一人一人と会話するのは、ずっとやったことですよね。

 何を話したかって言われると、全然大したことを話してないんです。一人一人に寄り添うということが一番大事。何を話したではなく、選手のところに行って一対一で話をする。まずはそれが大事だと思っていました。侍ジャパンというのは一流選手の集まりですが、一流選手というのは結構孤独だったりするんですよ。所属チームに帰っても「もう自分でできるでしょ」と、なかなか会話というかコミュニケーションをしてもらえず、孤独だったりします。そうではなく、一流選手でもちゃんと一対一で話をして、私の野球や五輪の意義、そういうことを理解をしてもらい、一緒に戦ってもらいました。

 ▽代表チームに必要な「都合のいい男」


2012年4月の楽天戦で稲葉篤紀さんは右前打を放ち、通算2千安打を達成=Kスタ宮城

 プロ野球選手は自分の成績が年俸に反映されますが(日本代表の選考では)勝つための自己犠牲、チームのためにやっているかを意識して見ていました。現役時代に私が代表に選ばれた要因?何でしょうかね。その時々で選手って求められているものが違うので。例えば長打を求められている選手もいるし、送りバントやエンドランを求められる選手もいます。ジャパンは4番ばっかり集めればいいというものではないので。その辺で私はどっちかといえば何でもできました。長打もそこそこ出て、送りバントもエンドランもやっていました。(選出理由は)たぶん都合のいい男だからじゃないですか。

 今はバッティングに突出しているとか、一つのものにたけている選手が非常に多くなってきました。ある程度守れて小技も何でもできて、そこそこ打ててっていう選手が、ジャパンの中ですごく必要なのかなと感じます。現役バリバリだった頃の私を、たぶん自分が監督でも選んでいるんじゃないかな。自分で言うのも何ですけど。五輪は1チーム24人なんで、一人の役割が結構多いんですよ。(万能プレーヤーが)いてくれたらありがたいなとは思います。


2021年8月、東京五輪の表彰セレモニー終了後、日本代表監督を務めた稲葉篤紀さん(中央)は菊池涼介内野手から金メダルをかけてもらう=横浜スタジアム

 投手を中心とした守りから、その中でどうやって1点を取り、次の1点をどう取るか、どうやって1点を防ぎ、次の1点をやらないか。ヤクルト時代からそうでしたが(日本代表での)私の野球というのは基本的にそういう野球です。守備は10割を目指せるので。一つのアウトをきっちり一つずつ積み重ねていき、あとはどう1点を取っていくかです。やっぱり守りのリズムからバタバタってあります。東京五輪もそうでしたが、目に見えないエラーですよね。例えばドミニカ共和国戦なんて(1―3の九回に柳田悠岐の)一塁ゴロで相手ピッチャーの一塁カバーが遅れて(結果は内野安打)そこから大逆転しました。

 短期決戦は先に点を与えないことです。まあ終わってみれば(東京五輪の1次リーグは)先に点を取られる試合ばっかりでした。それでも一つの四球であるとか、そういうものは極力避けようとしました。メンバー選考でもコントロールがある程度いいピッチャー、野手も打つだけでなく選球眼という部分で選びました。追い込まれたら1球でも多く投げさせ、しっかりストライクとボールの見極めができるバッターをね。私はそういう野球がやりたかったですし、そういう野球が強いと思ってますね。
 ×  ×  ×
 稲葉 篤紀氏(いなば・あつのり)愛知・中京高(現中京大中京高)―法大からドラフト3位で1995年にヤクルト入り。2005年に日本ハム移籍。07年に首位打者と最多安打。日本代表で08年北京五輪と09年、13年のWBCに出場。名球会入り条件の2千安打は12年4月に到達。通算2167安打を放ち、14年に引退。17年7月から代表監督を務め、東京五輪金メダルに導いた。72年8月3日生まれの52歳。愛知県出身。

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