張本勲さんも「あっぱれ!」 核廃絶に奮闘、姉の愛子さん
47NEWS / 2021年1月20日 7時0分
元プロ野球選手の張本勲さん(80)が打ち立て、いまだ破られていない3085本の最多安打記録。張本さんの実姉小林愛子さん(82)=兵庫県加古川市=は、弟の大記録を目標に、核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」集めに取り組んだ。たった一人で3481人分を集め、とうとう大記録を追い抜いた。小林さんを突き動かした原動力には、勲さんと2人で逃げ惑い、姉を亡くしたヒロシマの焼け跡があった。(共同通信=池田絵美)
▽かばんに署名用紙忍ばせ
「お仕事中、失礼します!」。市役所、郵便局、銀行、商店―。小林さんはどこへでも飛び込み「怪しい者ではございません。子どもたちが幸せになるために、お願いします」と署名用紙を差し出す。かばんにいつも用紙を忍ばせ、旅先でもチャンスがあれば喫茶店やスーパーで署名を願い出る。断られても、決してくじけない。「原爆で亡くなった姉の無念を思えば、何てこともない」
ヒバクシャ国際署名が求めていた核兵器の開発や保有、使用を全面的に禁じる史上初の国際法、核兵器禁止条約は、間もなく1月22日に発効する。しかし小林さんは「核兵器はまだこの世に存在している。ここで終わりではない」と話す。
署名は被爆者らの呼び掛けで2016年に始まった。昨年末に締め切り、国内外で1370万2345人分が集まった。1月8日に目録をメールで国連に提出した。
「ヒバクシャ国際署名」に取り組む、元プロ野球選手張本勲さんの姉で被爆者の小林愛子さん=2020年10月撮影
▽母の血のにおい
76年前の張本家。7歳だった小林さんは広島市内で母と兄、姉、勲さんの5人で暮らしていた。父は病気で早くに亡くなり、母が一人で生活を支えながら、4人の子どもを育てていた。
忘れもしない1945年8月6日午前8時15分。「ピカッと光ったと思うと同時にドーンというすさまじい音。何が起きたのか理解できなかった」。小林さんは爆心地から約2・3キロの自宅で、母と勲さんといるとき、米軍が落とした原爆に遭った。爆風で家は瞬時にぺしゃんこになった。
子2人を守ろうと覆いかぶさった母の背中にはガラス片が突き刺さり、小林さんが着ていた白いシャツは母の血で真っ赤に染まった。その血が生臭かったのを、今も鮮明に覚えている。
▽幼い2人で逃げ惑い
小林さんは勲さんの手を引っ張り、崩れた家から何とかはい出した。「勲を連れて、とにかく逃げんさい」と言う母に従い、勤労動員に出ていた兄と姉を自宅で待つという母を置いたまま、当てもなく2人で歩き始めた。
全身の皮膚がどろどろにただれた人や、水欲しさに川に飛び込み、そのまま動かなくなってしまう人、道ばたや川沿いに無造作に積み重なった死体。「助けて」「水」「熱い」。そんな声も途切れることなく聞こえてくる。
きょうだいは道行く人々の流れに身を任せるしかなかった。あまりの恐怖で、勲さんと言葉を交わした記憶はない。「半日以上は歩いていたと思う」。たどり着いた見知らぬ土手から見た広島の街は「何の建物もなくなっていた」。疲れ果てた2人は気絶するように眠りについた。
次に覚えているのは、多くの人が避難していたブドウ畑で母と兄と再会した場面だ。4人は涙を流して再会を喜び合った。母はガラス片が足に刺さったまま、兄は手に大やけどを負っていた。しかし、広島市中心部に作業に出ていた4歳年上の姉点子(てんこ)さんの姿はなかった。
▽「熱い、熱い」とうめく姉
「お姉ちゃんはどこにおるん?」。いても立ってもいられず、小林さんは勲さんとともに姉を探し回った。数日後、負傷者が収容されていた講堂のような建物で「点子姉ちゃーん!」と叫ぶと、奥からかすかに返事をする声が聞こえた。建物内は腐ったような臭いが充満していた。
点子さんは全身にやけどを負い、目や口は形も分からないほどつぶれたまま、寝かされていた。「返事をしてくれなかったら姉かどうか判別できなかったと思う。それほどまでに姉は焼かれ、変わり果てていた」
周囲の助けを借り、何とか点子さんを母と兄の待つブドウ畑まで運んだ。「熱い、熱い」とうめく点子さんに、勲さんがもいだブドウを絞って口に含ませ、小林さんはうちわであおぎ続けた。しかし数日後、点子さんは帰らぬ人となった。
優しくてかわいかった自慢の姉。「姉が何か悪いことでもした?原爆さえなければ、今も仲良くいろんな話ができていたのに」。父を早くに亡くし、強い絆で結ばれていた家族に、点子さんの死は重くのしかかった。それ以来、戦後も、家族の間で原爆の話題が出ることは一切なかった。
▽ふたをした記憶
戦後、母はバラック小屋で屋台を営み、朝から晩まで働き通して3人の子を育て上げた。勲さんは広島から大阪の野球強豪校に移り、その後、球界の歴史に名を残す大選手となった。
ロッテ―阪急11回戦、6回裏ロッテ1死2塁。阪急・山口から右翼上段に日本プロ野球史上初の3000本安打を2ランホーマーで飾った張本勲選手=1980(昭和55)年5月28日、川崎球場
小林さんも結婚を機に広島を離れ、原爆の記憶にはふたをしたまま、大阪で長く暮らした。「こんな悲しい話なんて思い出したくないし、聞きたい人もいないはず。誰にも言わんって思って生きていた」
しかし大阪から加古川市に引っ越した十数年前、地元の教師から熱心な依頼を受け、小学校で初めて被爆体験を証言することに。「ちょっとだけね、って気持ちだった」。その後届いた児童からの感想文が、小林さんの人生を変えた。
「真剣に話を聞かないと書けないような、細かい場面への言及があったり、戦争はだめですと書いてくれたり。私の話をこんなにしっかり受け止めてくれるのか。もう証言しませんとは言えないと思った」。一人一人に泣きながら返事を書き、被爆体験と向き合っていくことを決めた。以降、声が掛かれば全国どこへでも飛んでいき、証言活動に励んでいる。
核兵器禁止条約の2021年1月の発効が決まったことを受け、開かれた記念集会に集まった人たち。後方は原爆ドーム=2020年10月25日、広島市
▽命ある限り
ヒバクシャ国際署名の活動に加わったのは、2018年春。目標に据えたのは、弟の勲さんが誇るプロ野球最多安打記録の「3085」。地元自治体の首長に署名を求め「世界が平和になるために絶対に署名をするべきだ」と紙いっぱいに思いの丈をつづり、送ったこともある。
そんな地道な活動を積み重ね、19年末、ついに大記録を追い抜いた。今も変わらず仲の良い勲さんだが、2人で原爆の話をすることはない。
張本勲さん
それでも署名のことを報告すると「お姉すごいな。大あっぱれ!」とねぎらってくれた。
「すごく、本当にうれしかった」
76年たつ今も、目も鼻もつぶれ、苦しんで死んでいった姉の姿を忘れることはない。「あんな悲劇は二度と起こさせない。核兵器がなくなる日まで、命ある限り、姉の点子さんの無念を世界中の人に訴えていく」。声に力がこもった。(おわり)
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