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「警察ですが」毒母の突然死。そして私は、祖母を捨てた

オールアバウト / 2024年8月30日 20時10分

「警察ですが」毒母の突然死。そして私は、祖母を捨てた

突然知らされた母の死。虐待を受けて育った娘に私には、逃げ出したくなるような現実が待っていました。(サムネイル画像出典:筆者撮影)

この話は、実母が亡くなった翌日から四十九日が明けるまでの話です。虐待を受けた子どもが親を亡くしたとき、どんな思いを抱えて遺された“もの”と向き合うか。自身の心の整理のため、そして、同じような境遇の人たちにとって、何かしらの救いとなるヒントとなればと、筆を執りました。

「お母さまが亡くなりました」

撮影は全て筆者(以下同)。6月で止まったままのカレンダー6月某日、尿管結石の治療で体内に入れたステントの放散痛に耐えられず、仕事を休み布団に包まっていました。午前11時ごろ、見慣れた市外局番から1本の電話が。「石井さんの携帯電話でしょうか? ○○警察ですが、お母さまが亡くなりました」と話す電話の主。いろんな思いが一瞬で交錯し、動悸が止まりませんでした。最後に母と会ったのがいつだったのか。もう、よく覚えていません。自宅のトイレ付近で母が倒れているのを近所の人が発見してくれ、警察から連絡を受けたときは死後1日が経過。死体検案書には「心臓死疑い」とだけ書かれていました。66歳でした。

母は私を虐待し、祖母は母を虐待していました。そうした経緯もあり、疎遠だった母と私ですが、祖母はまだ、健在。しかもテレビで見る老害よりモンスターな有様で、これから先を思うと言い表せない不安が胸いっぱいに広がるのでした。

母も私も、“連れ子”だった過去

小学3年生のとき、母が養父と再婚をしてそれまで同居していた祖父母と離れ、関東で養父・母・私の3人暮らしが始まりました。養父の機嫌を伺いながら言いたいことも言えない母の“女”である姿を目の当たりにし、子どもながらに「自分がいつか結婚したら、子どもがいる状況で再婚はしない」と固く心に誓ったことを、今でも鮮明に覚えています。気に入らないことがある度、母の右手は私の頬に飛んでくる。「私もこうされてきたんだから!」それが母の口癖で、「とにかくこの家を出たい」「自分の家族を持ちたい」という思いをずっと抱いていました。

話は戻って警察から電話を受けた私は、大阪で1人暮らしの祖母へ連絡を。すると、1人でろくに歩けない祖母が、「今から(母の自宅へ)行く」と言うのです。「母の自宅」といっても、私が大学生から社会人1年目まで住んでいた家。そこに手癖の悪いきょうだいを連れて来ると……。「あの子(母)に預けている金がある。それをきょうだいと一緒に探す」とわけの分からないことを言い出し、「あの人たちがまた、何をするか分からないじゃない」と断ると、「あんた、狂ってるんちゃうん? 狂ってるわ」と言いながら一方的に電話を切る。いつも、こうです。正論を言われたら激高して一方的に話を打ち切る、そういう人なんです。それは母も同じでした。

その日の午後、出勤していた夫に急ぎ帰宅してもらい、母が安置されている警察署へ一緒に向かうことに。とにかく、祖母が来る前に、母の自宅から通帳や貴重品を回収しなければ、ものすごく面倒なことになる。夫に運転を任せ、私は車中で司法書士と葬儀屋を探し、警察署で母の貴重品を受け取るとすぐに、母の家へ。もともと花が好きな人でしたが、最近はガーデニングが趣味だった様子。玄関前や庭は、とてもきれいに鉢植えが並べられ、花の名前が書いたプレートも添えられていました。
片付け始めて1週間後のリビング。幸い、生ゴミ系はほぼなかったしかし、玄関を開けると……「何だこれ」思わず、私はそう口にしたのです。一体、何人で住んでいたの? というほど脱ぎ散らかした着物や洋服。テーブルの上は「発注書」と書かれた用紙が床までなだれ落ち、足の踏み場がない。程なく、母が買い物依存症に陥っていたことを、理解しました。

込み上げる祖母と親戚への憎悪

片付け中、キッチンの床下収納から出てきたベープ。「何でこんなところにあんねん……」放心状態の私に代わり、夫が手早く必要な物をまとめて、車に乗せる。そしてステント抜去のため、致し方なく母の家を後にして、2時間半をかけてまた自宅に戻ることに。日付を跨いだ午前0時30分ごろ、祖母も弟と妹を連れ、母の家に着いたと連絡がありました。翌日の午前中、病院でステントを抜いてもらい、死体検案書を受け取るため母の遺体を担当した医師の元を経由して母の家へ。その道中、葬儀屋から母の遺体は損傷が激しく、自宅へ安置することができないこと、火葬は最短で3日後になると連絡を受けました。警察が介入しているため、昨日の時点で私も母の遺体といまだ対面できていないので、どの程度の損傷かが正直、分かりません。

祖母へ「葬儀場に寄って母と対面してから、きょうだいと大阪へ帰る。もしくは、きれいな思い出のまま帰る。どちらかを選んで」と電話で状況を説明しましたが、答えは「あんたどこにおるん?」「こっちはずっと待ってんねんけど?」という悪態だけ。結局、あれだけ「娘がかわいい」と普段から言っていたのに、祖母は母との対面もせず、斎場に足を運ぶことすらせず、大阪へ帰ると私に言いました。

母の家に着くと祖母の妹が「悪いけど、うちらがここで食べたゴミだけ片付けて」と、分別すらしていないゴミ袋を差し出しました。なんで酒の缶がこんなにあるのだろう。この人たちは、一体何をしに来たのだろうか。頭の中に「?」がたくさん浮かんでいると、続けて祖母の妹は「あんたらのこと思って、家の物は“一切”触ってへんからね。片付け方は分かってるけど、下手に触られても困るでしょ?」と言い、物であふれ返った家の惨状について祖母は「あんたらがしたんやろ」と。「この人たち、ほんまに何?」「気持ち悪い」親族ながら、込み上げる吐き気を必死に飲み込みました。同時に、この家にはよく切れる包丁がなくて良かったと、心から思いました。

片付け中の2階の一室。大量の衣類は40リットルのゴミ袋を50袋は優に超えた。桐たんすの扉の内側に映る自分の顔は、怒りの感情に支配された醜い老婆のようだったその日の夕方、ようやく母の遺体と対面。少女のような顔をして眠っている母を見て、「悪いね。撮らせてもらうわ」と母の遺体を写真に収めました。間違いなく、この先どこかで祖母から「あんたのせいで、会わせてもらえなかった」と言われることが、分かっていたので。母が死んで4日目。大阪に戻った祖母から連絡が。用件は「あの子の化粧ボックスとその中身、こっちに送って」と。この瞬間、絶対家の中の物を持ち出しているという疑惑が確信に変わり、「あの家から持ち帰ったものはないのよね?」と聞くと、「2階にあったワニ皮のバッグしか持ってきてないけど?」と返してきました。あろうことか、祖母は自分の娘が死んだというにもかかわらず、足が痛くて1人でろくに歩けないというのに、わざわざ2階に上がって部屋中を物色し、欲しい物をトランクケースに詰めて私たち夫婦が来る前に配送業者を呼び、トランクケースごと大阪へ送っていたのです。

全身の血がぞわぞわとうごめくような感覚。この人の血が流れている、その事実に震える声でいろんな感情をかみ砕きながら、「悪いけど、葬儀のこととかで忙しいから、2~3週間は連絡できんから。そっちはそっちで頑張って。こっちも頑張るよって」と早口で言って電話を切り、トイレへ駆け込みました。

泥沼から救ってくれた、魔法の言葉「卑怯よ」

その日の夜、尿管結石の記事でも紹介した、おひいさまに電話。親子ほど年が離れているおひいさまはわが家の状況も、よく知っています。ここ数日の出来事をせきを切ったように話す私。書ききれなかったのですが、実際には祖母以外にも母の友達という人たちから、「いつもきれいで美しかった」とか、「もう会えないんて信じられません」など次から次へと連絡が来ており、そう言われるたびに「この1階も2階も足の踏み場がないほど汚い家なのに?」「あなたたちは一体、母の何を知っているというの?」と、どす黒い感情に襲われるだけでなく、やいのやいのと葬儀のことやその後のことまで口まで出され、心も体も疲れ切っていたんです。

話を終えた私に、おひいさまは「よう耐えた。よう頑張った。偉い、偉いよ」と何度も声をかけた後、「お母さま、卑怯よ。娘にこんなつらい思いさせて。……卑怯よ」と言ったのです。皆が母のことを良く言う中で、たった1人、おひいさまだけが私の立場で考えてくれました。「卑怯」というこの2文字が、この後、どれほど私を救ったかしれない。この言葉を聞いて、私は母の死後、初めて涙が静かに頬を伝いました。

虐待を親から受けている人は、親を憎む気持ちがある一方で、認められたい・愛されたいという思いを抱く人もいると思います。少なくとも、私はそうでした。でも、それがかなわないと知っていたから、私は自分で母親のように甘えられる人を必死に探したんです。それが、おひいさまでした。読者の中に、私と同じような経験をされている人がいれば、できるだけ年上の、できれば同性で尊敬できる人を1人でも多く探してほしいです。

あくまで私の経験ですが、今回のおひいさまの「卑怯」という言葉は、母の死後数日間と、この後、直面した数々の目を覆いたくなる事実から向き合える勇気を与えてくれました。もちろん、それで何もかも楽になる、なんてことは言わないし、言えません。ただ、その人は私のように行き場のない感情や、つらさを受け止めて導いてくれる存在になり得るかもしれません。もし、そんな人がいないという人は、ぜひ、そういう存在を探し出してください。「もう、いるよ」という人は、そのご縁をどうぞ末永く、大切に。月に1度はその人に電話をして、近況報告などをしてみてください。

電話を切る間際、おひいさまはこうも言いました。「おばあちゃまとは、縁を切りなさい」と。ここまで読めばその言葉は至極当然と思われるでしょうが、祖母は幼少期に私を育ててくれました。その恩や思い出もあり、私はまだその決心がつかなかったのです。「そうやね」と、あいまいな返事をして、電話を切りました。

「あんたのせいで私は!」

抱えきれない感情を持て余し、仕事終わりにビーチへ出た時の1枚おひいさまとの電話の翌日も、祖母は電話をかけてきました。やはり、あれが欲しい、これが欲しいというもの。挙げ句、「骨は勝手にいじらんといて」とまで来た……。母とは生前、「養父と同じところに眠らせて」という約束を交わしていました。娘の幸せをつぶしてでも養父との関係を死守した人です。大阪の祖母の元に行きたいなんて1ミリも思わないでしょう。「骨は、こっちで最後決めるよ。約束もあるから」と言うと、「なんでよ? あんたのせいで私は娘に会う事すらできなかったのに!」……いつか、来る。いつか来る言葉と分かっていたけれど、こんなにも早く来るのか。

自分は欲しい物をトランクケースに詰めて、きょうだいそろって「家の中は“一切”触ってない」とわざわざ、うそまでついて? 娘の顔すら見ずに逃げ帰ったくせに? 考えるより先に、「恥を知れ!」と大きな声で怒鳴り、われに返ると祖母はまた、電話を切っていました。昨晩、おひいさまから言われた、「おばあちゃまとは、縁を切りなさい」という言葉が、何度も何度も頭の中で再生されます。「もうあかん」「もう無理や」とスマホの電話帳を開き、祖母の携帯電話の番号を着信拒否に設定しました。そして私は、祖母を捨てたのです。

その後は火葬、養父の納骨先探し(疎遠だったので、どこに眠っているかすら分からない状況)、司法書士と相続についてのやりとり、週末になると夫と共に物であふれた母の家の片づけ。8月中旬の暑い夏の日、ようやく見つけた養父が眠る霊園に母も納骨しました。私のへその緒と一緒に。

「死後も永劫、母たること忘れる勿れ」

その思いを込めて。娘として、最後の甘えで、最大の復讐でした。納骨を終え、母の家に戻ると主を失った家はガランと広く、母の生前、私が最後にここへ来た時にはなかった壁いっぱいに飾られた写真に気が付きました。養父と再婚した時の結婚式の写真、養父と2人で撮った写真、幼稚園から小学生までの私の写真が飾られ、私が大人になってから、結婚してからの写真は1枚もありませんでした。10年前に養父を亡くしてから母の心は少しずつ崩壊し、幸せだったころの記憶を“写真”の中にたどることで、どうにか今と過去をつないで自分の均衡を保とうとしていたのかもしれません。母の時間は、もうずっと前に止まっていたのです。

母の四十九日。納骨を終えて霊園から晴天の空を臨むさて、この記事をどう締めようか。書いては消してを繰り返し、椅子の背もたれに体を預け、目を閉じてみます。しばらくすると、幼稚園のころに紙のゴミ袋で作った洋服を「ドレス!」と言いながら着て無邪気に笑う私と、祖母と祖父(祖母の再婚相手)、母の4人ではしゃいだ姿が浮かびました。2人で夜中にこっそり、祖母にばれないように『教師びんびん物語』をクスクス笑い合いながら見たことなど、思い返すのは幼いころの記憶ばかり。あれほど幸せな時間は確かにあったのに……。

そうか。私たち親子はもうずっと、ずっと前から、互いの時間は止まっていたのだと何十年もかけて理解できました。「卑怯者」、母に向けた言葉か、あるいは自身に向けた言葉かも分からぬ言葉を口にした時、開いたパソコンの前で大きな声を上げ泣き崩れることができました。やっと少し、自分と自分の感情を放つことを許せたのです。

私の相続はまだまだ終わりません。あの家を片付けて、売却手続きをして。向こう1年はかかることでしょう。祖母と縁を切るといえども、何かあれば行政から連絡も来ます。これからもまだまだ、私の家族の“呪縛”は続くのでしょう。それでも私の時間は、これからようやく動き出せるのかもしれない。今はそう、素直に思えるのです。

最後に、家の片づけや遺品整理を手伝ってくれた友人たち、いつも道に迷う私を導いてくれるおひいさま、真夏に大量のゴミ捨てを手伝ってくれた近所の皆さまといつもそばにいてくれる夫、業務上で多大な配慮をいただいた編集部へ、心より感謝を申し上げます。
(文:石井 有紀)

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