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なぜ元日本代表・細貝萌は、ずっとサッカーエリートでいられたのか。幼少期に訪れた、知られざる転機

オールアバウト / 2024年10月7日 21時15分

なぜ元日本代表・細貝萌は、ずっとサッカーエリートでいられたのか。幼少期に訪れた、知られざる転機

トップアスリートが「どんな環境下で育ったのか」、そして「わが子をどんな教育方針のもとで育てているのか」について聞く連載【アスリートの育て方】。今回は、元サッカー日本代表・細貝萌に、どのような両親のもとでどう育てられたのか、話を聞いた。

エリートフットボーラー、細貝萌

その端正な顔立ちもあいまって、細貝萌には“エリートフットボーラー”の印象がついてまわる。

実際、小学生時代から地元の群馬県前橋市では名の知れた存在で、県内有数の少年サッカー団、FC前橋ジュニアユースに所属していた中学3年生のときにU-15日本代表に選出されると、そこからU-18まで各世代別代表に名を連ねてきた。

高校は名門・前橋育英に進学する。当時はトップ下で、エースナンバーの10番を背負ってチームをけん引。3年時には特別指定選手として浦和レッズに加わり、卒業後の2005年には、同チームにそのまま入団している。

Jリーガーとなってからはセンターバック、サイドバック、ボランチなど複数ポジションをこなすユーティリティープレーヤーとして活躍し、2010年9月には日本代表としてデビューを飾った。中でも印象深いのは、2011年1月のアジアカップだろう。準決勝の韓国戦、延長前半に本田圭佑のPKのこぼれ球に鋭く反応して押し込んだ代表初ゴールは、2大会ぶり4回目のアジア制覇へとつながる価値ある一撃だった。

このアジアカップ後からは活躍の場をヨーロッパに移す。アウクスブルク、バイエル・レバークーゼン、ヘルタ・ベルリンなど主にドイツのクラブでキャリアを重ね、ブンデスリーガ1部で通算100試合以上の出場を果たした。

まさに「エリート」と呼ぶにふさわしい経歴の持ち主だが、しかし、決してその道のりは順風満帆だったわけではない。彼のサッカー人生を、いや“人間・細貝萌”を突き動かす原動力となったのは、大切な家族、そして自らが経験した大きな病だった──。

38歳となった今も生まれ故郷のJリーグクラブ、ザスパ群馬でプレーする細貝に、まずは幼少期を振り返ってもらった。

双子の兄に張り合うことで育まれた競争心

甘えん坊で、負けず嫌い──。そんな幼少期のキャラクターを形成したのは、なかなか珍しい家族構成だったのかもしれない。

細貝萌は1986年6月10日、群馬県前橋市に生まれた。父親はサラリーマンで、母親はパート勤めというごく一般的な家庭だったが、珍しいのは3つ上に一卵性の双子の兄(拓と聡)がいたことだった。

「兄2人は同じ服を着ているのに自分だけ違うとか、(2人の)誕生日に自分だけケーキがないとか、仲間外れみたいな感覚がありましたけど、そのへんは家族がうまくコントロールしてくれましたね。兄たちの誕生日に僕専用のケーキを用意してくれたり(笑)」

細貝家には特に厳しいしつけのルールもなく、やりたいことを自由にやらせてもらえる環境で、萌はのびのびと育った。

「勉強しなさいなんて言われることもなかったし、逆に夜中までテスト勉強をしていたら、『そんなに根を詰めなくてもいいんじゃない?』って言われたくらい(笑)」

「特に末っ子の僕には、両親も甘かったかもしれませんね。なんでも我慢させられるのは兄たちでしたから。そのせいか、小さい頃は両親にべったりで過ごすことが多かったし、風邪を引いたときも、兄たちは子ども部屋で寝るんですけど、僕はリビングの真ん中に布団を敷いてもらっていましたね」

一方で、負けず嫌いの性格は、兄たちの存在によって育まれた。幼稚園の年中組の頃から2人の兄にくっついて地元の少年団(広瀬FC)でサッカーを始め、小学1年生で正式に入団するのだが、その頃にはもう競争心が芽生えていた。

「かけっこ1つをとっても、当然兄たちにはかなわないわけですが、それが本当に悔しくて。サッカーも2人と同じようにできなきゃ嫌だった。普段の性格は両親に似て、兄弟の中で1番穏やかだと思いますが、サッカーや勝負事となると誰よりも負けず嫌い。それは僕自身も、家族のみんなも認めていますね」

兄たちに張り合うことで育まれた競争心。1番身近にいるライバルの存在がなければ、あるいはJリーガー・細貝萌は生まれなかったかもしれない。

小学生の頃に訪れた転機

そうした幼少期の環境に大きな変化が訪れるのは、萌が小学校低学年の頃だった。双子の兄の1人・拓が腎臓の病気になり、闘病生活を余儀なくされるのだ。2人の兄はいずれも地元の選抜チームに入るほど有望だったが、拓は5年生の途中でサッカーを諦めなくてはならなかった。

「透析している姿も見ていましたし、拓がサッカーを辞めなくてはいけないと知って、すごく複雑な気持ちでしたね。中学、高校と進むにつれて、『サッカーをやりたくてもできなかった拓の分まで、俺が頑張らなきゃいけない』って、強く思うようになりました」

兄・拓の病気は不幸な出来事ではあったが、萌に大きなモチベーションを与えただけではなく、家族の絆をさらに強めるきっかけにもなった。そして拓が大学生になり、母の腎臓の1つを移植できたおかげで、幸いにも病状は改善に向かっていく。

「もちろん今も投薬は続けていますが、もう透析はしなくなりましたし、日常生活に大きな支障を来すことはありません。腎臓を提供し、長時間の移植手術に耐えてくれた母をはじめ、全員で拓の病気を乗り越えられたのは、家族にとってとても大きかった。子どもに対する親の愛情、ぬくもりというものを、僕自身も強く感じられた時期でしたね」

U-15日本代表入り。名門・前橋育英へ

後に短期間ながらJFL(日本フットボールリーグ)のアルテ高崎でプレーをするもう1人の兄・聡と共に、萌は拓の思いも背負いながら、めきめきとサッカーの腕を磨いていく。中学3年生でU-15日本代表入りを果たすと、高校は聡と同じ群馬の名門・前橋育英に進学した。

「Jクラブのユースからも声を掛けていただきましたが、聡から前橋育英の話はよく聞いていましたし、最終的には『高校サッカーで勝負しよう』と自分で決めました。高校を卒業して浦和レッズに入団するときもそうでしたけど、両親が進路について口出しすることはありませんでしたね。その代わり、サッカーを続けていく上でのサポートはできる限りのことをしてくれました」

Jリーグが誕生したのは、小学校低学年の頃。今とは違い、当時はまだプロとしてヨーロッパでプレーすることがイメージしにくい時代だったが、萌は早い時期からそんな夢を抱いていたという。

「中学3年でU-15日本代表に選ばれて、フル代表の選手たちと同じデザインのユニフォームを着て戦ってから、『俺はサッカー1本で生きていく』、『将来はヨーロッパでプレーするんだ』という目標を具体的に思い描くようになりました。そんな夢も両親はごく自然に受け止めてくれましたし、そのために必要なものは買い与え、日々の練習の送り迎えから食事面まですごく気にかけてくれた。感謝しかないですね」

その後、前橋育英、浦和レッズで成長を遂げると、2011年にはドイツへと渡り、ついにヨーロッパでプレーするという夢にたどり着く。双子の兄という競争相手の存在、兄・拓の病気とそれを乗り越えた家族の絆、何も言わずに夢をサポートしてくれた両親の愛情、そして何よりも自身のサッカーに傾ける情熱が、細貝をトップアスリートへと押し上げたのだ。

「好きなことを一生懸命にやる」細貝家のルール

ちなみに、「大きな声を出しているところを見たことがない」という無口な父親も、「いつもニコニコと笑っている」という母親も、学生時代、特別スポーツに秀でていたわけではない。ある研究結果によれば、「運動能力の66%は遺伝要因で決まる」と報告がされている。しかし、決してそれだけでトップアスリートが育つわけではないだろう。

親は子どもに多くの選択肢を与え、情熱を傾けられる対象が見つかれば、子どもの意思を尊重しながら、愛情をもってサポートする。大前提はそこにあるはずだ。

細貝はこう言って笑う。

「野球好きだった父親は、本当は僕に野球をやらせたかったみたいなんです。サッカーは、少年野球チームに入れる年齢になるまでの“つなぎ”だったらしくて(笑)。他にも水泳や書道、エレクトーンなんかも習わせてもらいましたけど、僕がサッカーにハマると黙って応援してくれた。そうですね……あえて細貝家のルールを挙げるなら、『好きなことを一生懸命にやる』ですかね」

細貝萌(ほそがい・はじめ)
1986年6月10日生まれ。群馬県前橋市出身。強豪・前橋育英高校で10番を背負った3年時にインターハイで3位になるなど実績を残し、特別指定選手を経て2005年に浦和レッズに入団。ユーティリティープレーヤーとして5年間活躍したのち、ドイツへ渡る。アウクスブルク、バイエル・レバークーゼン、ヘルタ・ベルリン、シュツットガルトを渡り歩いたブンデスリーガでは1部と2部を合わせて公式戦119試合に出場した。トルコやタイのクラブでもプレーし、2021年9月にJ2のザスパ群馬へ移籍。38歳の現在も地元のクラブで戦い続けている。日本代表歴は通算30試合・1得点。前橋市に自ら設立したフットサル場で子どもたちの指導も行い、またCTEPH(シーテフ=慢性血栓けっせん性肺高血圧症)という難病の啓発大使としても活動している。

この記事の執筆者:吉田 治良 プロフィール
1967年生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。2000年から約10年にわたって『ワールドサッカーダイジェスト』の編集長を務める。2017年に独立。現在はフリーのライター/編集者。(文:吉田 治良)

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