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横浜市電の元車掌が語る、びっくりエピソード! 「入ると助役が…」営業所の風呂場は検査場だった!?

オールアバウト / 2024年11月2日 21時15分

横浜市電の元車掌が語る、びっくりエピソード! 「入ると助役が…」営業所の風呂場は検査場だった!?

横浜市民の足として長く親しまれた「横浜市電」の車掌や運転手の仕事とは、どのようなものだったのか。旅行・鉄道ジャーナリストでAll Aboutの旅行ガイド、森川天喜さんの新刊『かながわ鉄道廃線紀行』から、元職員へのインタビューを紹介します。

近年、低公害・省エネで環境に優しく、また少子高齢化社会を前提とするコンパクトシティ構想とも親和性が高いことから、路面電車(低床型車両を用いた次世代型路面電車=LRT)が見直される気運が高まっているが、およそ半世紀前の日本の多くの都市では、路面電車が活躍していた。

当時の首都圏における路面電車の代表格といえば東京都電と横浜市電。横浜市電とはどのような路線だったのか。以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜 著、2024年10月神奈川新聞社 刊)から、横浜市電の運行に携わった元職員へのインタビューを一部抜粋してお届けする。
市電運転手時代、実際にハンドルを握った横浜市電保存館の1104号車と相原政行さん

営業所の風呂場は検査場?

市電が最盛期を迎えていた1956(昭和31)年4月に交通局へ入局し、車掌・運転手を合わせて14年間務めた相原政行さん(86)は、「男性の車掌が採用されたのは私たちが最後。運転手に任命されたのも、後にはいなかった」という市電乗務員の最後の世代。

「つらいこともあったが、ずっと横浜市民の足として親しまれていた市電の運行に携われてよかった」と微笑む相原さんに、市電のハンドルを握っていた当時の記憶を語ってもらった。(2024年5月21日、年齢は取材時)

――相原さんが交通局に入られた1956(昭和31)年頃の市電は、どんな様子でしたか

相原:私が入ったのが4月2日。その前日に市電最後の延伸となった井土ヶ谷線(保土ヶ谷橋-通町一丁目間)が開通して、路線長としては最盛期(51.79km)を迎えました。お客さんも多かったですよ。まだまだ市電が元気な時代でした。だから、10数年後に市電がなくなるなんて、そのときは夢にも思いませんでした。

――最初は車掌として、どの営業所に配属になったのですか

相原:教習所に入って10日間くらい座学を受けて、それから生麦へ配属になって、しばらくは師匠について、見習いをやりました。勤務形態としては早番(始発から)と遅番(終電まで)のほかに中休勤務っていうのがありました。

朝・夕のラッシュを担当する役割で、昼間は家に帰っていいというシフトです。午前10時頃にいったん抜けて、また午後の3時半頃に出勤しなけりゃならない。

――それだと、うかうか昼寝もできないですね

相原:そうなんですよ。だから、私はよく生麦駅前にあった映画館に行きました。当時、映画は55円だったと記憶してますが、ピッタリのお金を持ってね。車掌も運転手も公金を扱う仕事だから、営業所には自分のお金を持ち込めないんです。だから午後の出勤のときは、すっからかんになって行かなきゃならない。

――お金に関しては、検査も厳しかったと聞いたことがあります

相原:よくご存知ですね。嫌だったのが営業所のお風呂。寮暮らしで、銭湯代もバカにならないと思っていたので、営業所にお風呂があると聞いて、そりゃ助かると喜んだんです。ところが、お風呂といっても、実は体のいい検査場だったんですよ。

――検査場ですか

相原:そう。勤務が終わってお風呂に入るでしょ。そうすると助役が、脱いだ服に小銭が残ってないか、検査するんですよ。風呂場は入口と出口が別々になっていて、検査が終わった服が、カゴごとすき間から出口側へ送られる仕組みでした。あれは、嫌な気分になりましたね。もちろん、女性の服も女性の事務員が検査してました。
車内で切符を販売する車掌(撮影:神奈川新聞社)

長時間乗務、食事やトイレはどうしていたのか?

――お金が持ち歩けないとなると、食事なんかはどうしたのですか

相原:食券と金券を給料からの天引きで買うんです。食堂のほか、売店も金券で払うシステムです。現金と一緒なので、とにかく落とさないように気をつけましたね。

あと、食事に関しては、交代のことを気にしながらなので、どうしても早食いになりがちで、胃下垂になる人が多かった。胃を持ち上げるコルセットみたいなのが流行ってましたよ。

――長い乗務だと、トイレも気になりますね

相原:当時、一番長かったのが、3系統(生麦-山元町)の補充(注:混雑対策などで走らせ、「3補」のように表示)で、生麦-山元町-横浜駅前-山元町-生麦という経路で運行するのがありました。このM字型運行を別名「大山」とも言ったんですが、だいたい210分かかる。

もちろん、営業所と終点の山元町にはトイレがありますが、1度、横浜駅の辺りでどうしても、トイレに行きたくて我慢ができなくなりましてね。運転手に事情を伝えると、「折り返してくるまでの間に行ってこい」ということになって、急いで交番に駆け込んだことがあります。

――ほかに車掌の仕事としては、どんなところが大変でしたか

相原:満員の、しかも揺れる車内で切符を切るのは大変でした。特に冬は今よりも寒かったから、手がかじかんでね。私の時代は片道13円という半端な運賃だったので、かじかんだ手で釣り銭を渡したり、切符にパンチを入れるのがつらかった。

あと、次の停留場に着いても、混雑で後ろに戻れなくなることもよくあった。運転台から降りて外を駆けて後ろへ戻って、外からは扉が開かないので、お客さんに「すみません」と頼んで開けてもらったり。

それから、片側3扉の大型ボギー車には、中央扉に中部車掌(補助車掌)が乗ってたんですが、私が入局する2カ月前にそれが廃止になったんです。だから、中央扉(自動ドア)は、後部で車掌が操作して開閉したのですが、安全確認のため、雪が降ろうが嵐になろうが身を乗り出して側面を見なければならない。もう、ずぶ濡れでしたよ。

――中部車掌は合理化のために廃止されたと聞きましたが、それによって後部車掌の負担が増えたわけですね

相原:そうですね。特に、“ドル箱”と言われた3系統なんかは、ラッシュ時は始発の山元町で、すでに満員で、日の出町一丁目でわーっと降りるわけです。京急線に乗り換えていたのでしょう。

そういう状態だから、到着してすぐに入口専用の中央扉も開けて、降ろさざるを得ないわけですが、もう定期券の確認もなにもできたものじゃなかった。お客さんへのサービスの面でも、不正乗車防止の観点からも、どうにかならないものかと疑問に思ってました。
混雑する3系統の始発、山元町停留場(撮影:神奈川新聞社)

運転手になったきっかけは?

――運転手になられたのは、どんなきっかけだったのですか

相原:市電の免許が、国家試験制度になった関係で、(詳細の事情は定かでないが)運輸省(当時)からお達しがあったのか、各営業所に何人かずつ、新しい基準の免許持ちの運転手を置こうという話になったのでしょう。

運転手候補ということで10人くらいの募集があったんです。そうしたら志願者が殺到しましてね。志願者が集められて(局内の)筆記試験を受けさせられて、受かった10人が、今度は東京の青山にあった都電の教習所に4カ月間、学科研修に行かされました。

試験は8科目あって、全科目70点以上取らなければ不合格ということで、必死に勉強しました。私は、早く運転手になりたかったんですけど、当時は運転手の不足がなかったんだと思いますが、そういう話が全然なくて、ようやく巡ってきたチャンスでしたからね。
車掌・運転手を合わせて14年間務めた相原政行さん。1104号車の運転席にて

――編集部より――
書籍『かながわ鉄道廃線紀行』では、運転手として一番印象に残っている出来事や、遭遇した交通事故、車両に対する思いなどについても聞いています。また、インタビュー以外にも、横浜市電の歴史や車両、さまざまなエピソードなどを、当時の写真や新聞記事などを交えて詳しく紹介しています。

森川天喜 プロフィール

神奈川県観光協会理事、鎌倉ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)。2023年10月~神奈川新聞ウェブ版にて「かながわ鉄道廃線紀行」連載。
(文:森川 天喜)

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