1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 芸能
  4. アニメ・コミック

「トラペジウム」アイドルはどのように“誕生”し、“存在”していくのか? 【藤津亮太のアニメの門V 107回】

アニメ!アニメ! / 2024年6月10日 12時50分

映画 『トラペジウム』は「アイドル」を巡る物語である。
しかし、アイドルについての具体的な描写は少なく、かといって会話の中で概念としてなにか確固たるものが示されるわけでもない。本作におけるアイドルは、大いなる空白とでもいうべき「不在の中心」として扱われている。  


この姿勢は冒頭から明白だ。冒頭は、主人公・東ゆうが幼い日、テレビでアイドルの姿を見て、心惹かれるシーンから始まる。ただこのシーンで、テレビの中のアイドルの姿はちらりとは見えるだけで、固有名詞を持った明確な存在としては扱われない。また観客の熱狂も点描の範囲で、その熱気が東に感染したというふうにも演出されていない。観客は「東が“それ”に魅了されたこと」はわかるが、「“何”が東を魅了したか」について画面から具体的な“何か”を受け取ることは難しい。  


この姿勢は徹底していて、本編でアイドルらしいパフォーマンスが正面から描かれるのは物語の折り返し点で1回だけ。ファンの姿も同様で、SNSのリアクションなどの範囲に留まっている。中には原作にファンの描写があるところを、あえて映像にしていないところもある。東は作中でアイドルについて、“光っている存在”、“人を笑顔にする存在”と説明するが、この言葉も映像として示されることはない。東は、他人を巻き込みながら、この「不在の中心」の周囲をぐるぐると回る、まるで台風のような主人公だ。  


冒頭に続くタイトルバックには、高校生となった東が歩く様子を軸に、物語全体の予兆を織り込まれている。例えば、4羽の鳥が登場するものの、その後のカットで東を残して3羽が飛び去っていく様子が描写されるし、風見鶏や壊れる方位磁針を見せることで、これから起こることの予感を示している。  


この間に挿入されるのが、成長した東が、ダンスを練習し、オーディションを受け、不合格通知をもらうという3カットだ。ここはノートに描かれた鉛筆画が動くという少し変わったスタイルで表現されている。本編の半ばも過ぎたあたりで、東はいくつかオーディションを受けたが「全部落ちた」ということがセリフで明かされる。この台詞の根拠となるのが、タイトルバックの3カットなのだが、映像のスタイルもあって、そこまで強く印象には残らない。  


「オーディションに全部落ちた」という事実と、にもかかわらず彼女の中にはアイドルへの執着が燃えているという点が、東を“奇策”へと駆り立てているわけだが、ここでも「全部落ちた」という動機の中核が明確に示されない。そのため物語は東の“リベンジ”という色を帯びることもない。その代わり浮かび上がるのは、「不在の中心=アイドル」をめぐって空回りをした東が、若さゆえの過ちを起こすという物語だ。  


映画の前半は、東が自分の住む地域の「東西南北の美少女を集めてアイドルグループを結成する」という目的に向かって進む姿が描かれる。先ほど“奇策”と書いたが、ここで東が目標達成のために行うのは「見込みのある女の子を選び出し、友達になる」「ボランティアに参加して、のちにプロフィールを探られたときの印象をよくするための仕込みをする」「観光地で通訳ボランティアを行ってメディアの注目を得る」といった非常に迂遠なプランなのである。  


この「子供の浅知恵」としか言いようがない“奇策”が当たる。通訳ボランティアの取材がきっかけで、制作会社と縁ができ、情報バラエティの1コーナーに女子高生レポーターとして4人で出演することができたのだ。そして番組のエンディングテーマも歌うようになる。「東西南北(仮)」というグループ名もつき――だからタイトルバックでは風見鶏や方位磁針が彼女たちの象徴として描かれる――彼女たちは、初ライブに挑戦することになる。  


ここが本編で正面からアイドル活動が描かれたシーンだ。しかしここでは「一生懸命な4人」を描くことが主眼で、彼女たちの一生懸命さがファンに伝わるといった描写は中心にはない。そして物語の折り返し点に置かれた、このライブシーンを境に、東西南北(仮)はギクシャクしていき、2曲目を出す前に空中分解してしまう。



どうして空中分解してしまうかといえば、東以外の3人はもともと「アイドルになりたい子」ではないからだ。しかも、実質的にリーダーである東は「モチベーションの確認や維持」「目的の共有」といったチームをまとめるためのマネジメントを行っているわけでもない。彼女はもとから、友情という型の中に3人をはめて、それで行動を共にしてもらおうと考えていたわけで、自分の「アイドルになりたい」という夢を共有しようともしていない。なぜなら東の中で「アイドルは素晴らしいものである」ということがあまりに自明だからだ。また東が3人といっしょにアイドルになりたいのか――3人のほうが東より人気がある――、最終的に自分だけが夢を達成できればいいのか――などが曖昧なまま状況は進んでいく。  


本当は大人がそのグループのマネジメントにかかわるべきだろうが、本作は東の失敗を描く物語なので、大人はテイよくフレーム外におしやられている。だから、失敗は当然の結末といえる。  
また本作におけるアイドルが「不在の中心」だから、この東の「アイドルは素晴らしいものだ」という主張は、観客には空回りしたものとしてしか見えてこない。  


実はこの「不在の中心」に、実態を与えられられる可能性のあるポイントが映画の中には2つあった。  


ひとつは、車椅子の少女サチ。彼女は亀井が参加するボランティア活動を通じて、東たちと出会うことになった。学園祭のシーンでは、「10年後の私」をテーマにしたコスプレ写真館で、サチは東にアイドルの衣装を着てほしいと頼む。それはサチが、ミニスカートだと自分の義足が見えてしまうことを気にした結果でもあるが、その流れで東はサチとアイドルになる約束をする。うれしそうなサチ。  


東はもともと、学園祭にサチが現れたことで、自分の予定が変更になってしまったことに腹を立てていた。しかし、彼女こそ「アイドルは周囲を笑顔にする存在」を裏付けてくれる存在だったのだ。  
そして東西南北(仮)が空中分解してしまったあと、偶然にも4人が再会するきっかけとなったのも、サチが唯一の楽曲をラジオにリクエストしたからだった。ここでも彼女は、本作で抽象的にしか描かれていない“ファン”という存在に、実体を与えている。  


けれど彼女が、それ以上に作中でフィーチャーされることはない。物語のラスト、数年が経過したあと、4人の再会が描かれるとき、高校時代にサチを交えて撮ったコスプレ写真が登場する。しかし東は、あの頃の夢が叶ったということを噛み締めても、そこにサチがいたことには思い至らない。  


もうひとつは、東と小学校時代に同級生だった亀井のエピソードだ。東西南北(仮)が解散したあと、東は亀井に会って、昔の自分のことを尋ねる。亀井は、小学生のとき、「いじめられた自分に東だけが普通に話かけてくれた」ということを語り、「自分にとって東はヒーローだった、自分は東ちゃんのファン1号だった」と言うのである。


映画の終盤にも近いこのシーンで、東の人間的な魅力に言及されるが、映画をここまで見てきた観客なら想像がつくとおり、これは亀井の“美しい誤解”である。東は、一匹狼気質で合理的でない行動を嫌っただけだったのだろうと想像がつく。このディスコミュニケーションから生まれる尊敬という非対称性は間違いなく“アイドル”という存在と深いところで繋がっている。しかし、このエピソードもまた東や“アイドル”を深堀りするほどにはならず通り過ぎてしまう。  



本作は、2つの締めくくりがある。ひとつは、サチのリクエストをきっかけに、自分たちの歌が入ったCDを買って、4人がベンチのある高台に集まるシーン。ここで4人は、まるで世に出ることのなかった2曲目を揃って歌う。その姿はまるで卒業式の校歌斉唱のようだ。  


もうひとつは、先述のとおり数年後に、アイドルとなった東と、それぞれの人生を歩んでいる3人が再会をする終幕である。先程のサチとともに高校生の4人が映った写真を前に、東の「夢を叶えることの喜びは、叶えた人にしかわからない。あのときの私、ありがとう」というモノローグで締めくくられる。  


高校時代の締めくくりは、端的に言うと、自分たちを振り回した東を残りの3人が許すという和解のエピソード。若い頃の思い出したくない思い出をそのまま抱えて生きていくのも人生だろうとも思うが、本作は、感情のぶつかり合いもすべて「いい思い出」として昇華する。  


東に振り回された3人が、「いい思い出」にしたいということは、かなり剛腕な展開と感じなくもないが、そういう自己肯定化は世間のいたるところにあるものなので、わからないでもない。一方で東については、3人を振り回したことで、自分が「諦めが悪いこと」を確認したというふうに描かれる。つまり東は、なにも変わっていないのである。結果、友情と名乗る東の打算もまたここで肯定されていく。  


この「諦めが悪い」を踏まえて最後に、ようやくアイドルになった東の姿が描かれる。しかしそれもやはり、アイドルのパフォーマンスを通じて、自らが積極的に輝いたり、ファンを笑顔にしたりする具体的な様子ではない。アイドルになった東の姿として描かれるのは、(おそらく)テレビのインタビューに、高校時代の出来事をそつなく答える様子なのである。原作小説では、東が観覧席に熱心なファンの姿を認めるくだりがあるが、映画は当然ながらその描写を映像化することはない。  


「諦めなかったこと」のゴールが、パフォーマンスやそれにまつわるような姿でなく、普通に芸能人をやっている姿であること。つまりコレが彼女のなりたかった“アイドル”というものの実体と理解するのが妥当だろう。  


ここにきて、アイドル描写が具体性を欠き、「光る存在」「人を笑顔にする」といった言葉が、言葉でしか語られなかった理由がわかる。それらは本当に抽象的な言葉でしかなかったのだ。東の欲求は、芸能界という世界を自分の居場所にしたいということだったのだ。ここがひとつのゴールである以上、“アイドル”が映画の中で「不在の中心」として扱われるのは当然のことといえる。  


原作小説で東はこの取材を受けながら、自分という存在を“嘘のベール”でどこまで覆うのかについて考えている。そして「アイドルの使命は自分のパーソナルプロデューサーを担い続けることだった」と続く。  


この記述と映画の描写を合わせて考えると、本作における“アイドル”とは何か、がようやく本作の描写の中から浮かび上がってくる。それは「アイドルとは自意識である」というものだ。この自意識を持つもの、手放さなかったものだけがアイドルたりえて、芸能界に居場所を得ることができる。「不在の中心」を巡ってさまざまな描写を積み重ね、その果てに「アイドルとは自意識」であるというテーゼを浮かび上がらせたのが本作なのだ。だから、ラストに東が、サチではなく、自分自身に感謝するのは、彼女にとってとても自然なことなのだ。  




[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください