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村上春樹の短編を組み合わせた「めくらやなぎと眠る女」で新たに生まれた文脈【藤津亮太のアニメの門V 109回】

アニメ!アニメ! / 2024年8月11日 19時0分

『めくらやなぎと眠る女』は村上春樹の短編小説を組み合わせてひとつの長編に仕立てたアニメーション映画だ。アニメーションとしてもユニークな肌触りの作品であり、また物語も短編を組み合わせたことで原作にはない新たな文脈が生まれて、印象深い作品となっている。  


本作はピエール・フォルデス監督の絵コンテに従ってまず実写を撮影し、その動画を参考に、アニメ用にデザインされたキャラクターに基づいて作画を行った。またキャラクターの表情については、3DCGでキャラクターデザインに基づいたモデルを起こし、それを役者の演技に連動させたものを、作画に起こしたという。フォルデス監督は、これをライブ・アニメーションと呼称している。  


そのほか周囲のモブキャラクターを半透明に表現したり、背景美術のアウトラインを白で描いたりと印象に残る表現も多い。背景美術の色使いがヨーロッパを感じさせるところも加わって、日本を舞台にしながら、リアリズムと寓話の間を漂うような、独特の浮遊感が生まれている。  


奇しくも山下敦弘・久野遥子両監督による『化け猫あんずちゃん』も、実写で映画を撮影し、役者の動きを拾いつつも、シルエットは役者とまったく異なるキャラクターを作画するというスタイルで制作されている(同作はこの手法も従来と同じくロトスコープと呼んでいる)。また背景は、『めくらやなぎ~』のプロデュースを手掛けたミユ・プロダクションズが手掛けているという共通点もある。作品の内容は異なるが、両作のアニメーション表現の狙いどころは案外近いところにあるといえるだろう。  


フォルデス監督が映画の題材として選んだ短編は「UFOが釧路に降りる」「かえるくん、東京を救う」「めくらやなぎと、眠る女」「バースデー・ガール」「ねじまき鳥と火曜日の女たち」に「かいつぶり」を加えた6編。「かいつぶり」は映画冒頭などで登場する「階段」や「廊下」のイメージソースとして使われているので、具体的に小説のエピソードが拾われているわけではない。  


フォルデス監督はこの5編をどのように構成したか。映画は全体で7つのチャプターに分かれており、パートの頭には数字が表示される。大雑把にあらすじを記すと次のようになる。


<1>東日本大震災が起こった日から、小村の妻・キョウコはテレビで報道番組を見続けていた。ある日、キョウコは書き置きを残して、小村の元を去ってしまう。(「UFOが釧路に降りる」前半に相当)


<2>小村と同じ東京安全信託銀行に勤めるうだつのあがらないサラリーマン・片桐。彼が帰宅すると部屋にかえるくんがいる。かえるくんは片桐に、東京に震災を起こそうとしているみみずくんを倒すため、ともに戦ってほしいと依頼をする。(「かえるくん、東京を救う」前半に相当)


<3>週末、故郷に帰った小村は、甥のジュンペイの通院につきそう。小村はその病院で、高校生のころに、キョウコとキョウコの恋人で友達だったヒロシと会話したことを思い出す。キョウコはそこでめくらやなぎの花粉で眠り続ける女の物語を語った。ヒロシはその後、バイクの事故で死んだ。(「めくらやなぎと、眠る女」に相当)


<4>上司からリストラ勧告を受ける小村。休暇をとった小村は、同僚の佐々木に頼まれて北海道の佐々木の妹・ケイコのところまで「箱」を届ける。ケイコが予約してくれたホテルで、ケイコの友達・シマオと会話をする小村。シマオに、あの「箱」の中には小村の魂が入っていたのではないかと言われ、小村はその瞬間、強い暴力衝動を感じる。(「UFOが釧路に降りる」後半に相当)


<5>キョウコはホテルのバーで、ある男にかつて20歳の誕生日に経験した不思議な出来事を語る。当時アルバイトで働いていたレストランのオーナーに食事を届けることになり、そこでオーナーから「願い事をひとつ叶えてあげる」と言われたのだった。(「バースデー・ガール」に相当)


<6>片桐は、会社に現れたかえるくんから、みみずくんと戦う日時が決まったと告げられる。しかし片桐は何者かに撃たれ、気が付くとそこは病院だった。すでに戦いの日時は過ぎてしまっていた。やがて病室に現れたかえるくんは、片桐は想像力の中でちゃんとかえるくんを応援してくれ、なんとかみみずくんに勝つことができたと語る。そしてかえるくんは、溶けて消えてしまう。(「かえるくん、東京を救う」後半)


<7>キョウコの書き置きに従って、行方不明になった飼い猫ワタナベ・ノボルを探す小村。裏庭から続く路地に入り草むらを通り抜けると、ある家の庭に少女がいた。少女と会話をするうちに小村は眠りに落ち、目が覚めると少女はいない。小村は上司にリストラを受け入れると電話し、キョウコにメールを送る。(「ねじまき鳥と火曜日の女たち」に相当)。  


5つの短編は「妻が失踪した小村の物語」と「かえるくんと片桐の物語」(これはほぼ原作通り)、「失踪したキョウコの回想」(こちらもほぼ原作通り)という形に整理されている。それによって本作は、地震に「封印していたなにか」が地震によって揺り動かされ、それによって生き方が変わる3人(小村、キョウコ、片桐)の物語という顔を持つようになった。短編では、あえて読者に投げかけられていた「問い」に対して、映画はある種の「答え」を含んだ形で制作されている。これはこれで、ひとつの原作と映像の関係であろう。



映画は、夢の中で小村が螺旋階段を降りていき、地下の回廊で地震に襲われるところから始まる。村上作品において当然そうであるように、本作にとっても「夢」は非常に重要な空間として扱われている。フォルデス監督は、本作を「目を覚ました人々の話」(パンフレット)と語るが、それを踏まえつつ、本稿では、あえて「目を覚ます」ということより「眠り」を重視したい。なぜならフォルデス監督が語る「覚醒」は、本質的には「夢」の中で起きているからだ。  


小村が目を覚ますと、キョウコは午前3時にもかかわらず震災を報じるテレビを見続けている。5日間眠りもせずテレビを見続けていたキョウコだが、失踪する直前のカットではソファに横になっている姿が描かれている。  


このシーンを見ただけではわからないが、映画を見ていくと、ここで寝ているキョウコは、高校時代のキョウコが語った「めくらやなぎの花粉によって眠り続ける女」と連続していることがわかる。そして、目覚めたキョウコは失踪する。  


キョウコは夢の中で何かに「覚醒」したのではないだろうか。短編では失踪の理由は宙吊りにされたままだが、本作はこの後、<3>でキョウコの高校時代のエピソードが、<5>で20歳の誕生日のエピソードが語られることで、失踪直前のキョウコの心情が想像できる仕組みになっている。  


一方、取り残された小村はキョウコの置き手紙を読む。そこには小村との生活を「空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいだった」と書かれていた。この言葉をきっかけに、小村の彷徨が始まる。それはキョウコを探す旅のようでもあり、小村が自分自身を探す旅のようでもある。短編を組み合わせたことで、自分の欠落した何かを探し求める、ヒーローズ・ジャーニーの一種の変奏という趣がこの映画にはある。  


小村がまず出会うのは、甥のジュンペイだ。ジュンペイは聴覚に問題を抱えており、通院している。バスの中でジュンペイは小村に「今までで一番辛かったことは?」と尋ねる。  


フォルデス監督はここについて「小村は妻に去られたばかりで、これが一番辛い。でも、彼はそれを口に出しません。でも、そこからいろいろなことを思い出すわけです。この少年の質問が、小村の記憶のトリガーのようになっているのです」(同)と説明する。  


ここで小村が思い出すのが、高校時代の友人でキョウコの恋人だったヒロシの思い出だ。入院中のキョウコのもとに、ふたりでバイクに乗ってお見舞いにいったあの日の記憶。そこでキョウコは、丘の上の一軒家で、めくらやなぎの花粉をハエによって耳の奥に運ばれ、眠り続ける女の話をする。そこには、女を助けようとする男の姿もある。  


ヒロシがそれは自分だというと、キョウコはそれをやんわり否定する。キョウコに淡い思いを抱いている小村は、その仲の良さそうなやりとりを静かに見ている。一連のやりとりの合間に、屋外からのショットは挟まれ、3人がそれぞれがバラバラの窓枠に収まっている絵が登場し、恋愛と友情で結ばれながらも、どこかバラバラな3人の思いが視覚化されている。  


しかしヒロシはその後、バイクの事故で死んでしまう。<5>ではその後、キョウコは大学に進学し東京で暮らすようになる。彼女は小村と再会し、結婚することになったということが説明される。  


死んだ恋人・友人と、残された女と男。もともとの短編が長編『ノルウェイの森』につながっていくものであったこともあり、この構図は『ノルウェイの森』と共通している。本作のラストシーンもどこか『ノルウェイの森』を思わせるところがある。そこを踏まえると、「一番辛かった」こととは、キョウコの失踪にとどまらず、その向こうで思い出された「ヒロシの死」と考えると、よりクリアにならないだろうか。  


繰り返し登場することはなく、関係したふたりも言及しないが、大前提として設定された「ヒロシの死」。そういう意味では本作は、「ヒロシの死」を虚の場所としてしまったことの混乱を描いているとも読解できる。



「キョウコが震災によるニュースから目が話せなくなったのは、「不条理な死」というものをまざまざと見せつけられ、それが自分の過去にあった「ヒロシの死」と結び付いたからではなかったか。キョウコは、自分の語った「眠る女」の物語の中でハエが耳の中に花粉を運び、女の肉を食べていたように、「ヒロシの死」が自分の中に蓄積されていたことをあの一睡の中で思い出してしまったのではないか。翻って小村が「空気」のように感じられたのは、キョウコに「眠る女を救いに来る男」を期待されながら、小村もまた「ヒロシの死」を心の中で封印していたからではないか。<3>の回想を見ると、そうした空白を埋めるパーツが、「答え」としていろいろ浮かんでくる。  


だからこそキョウコの覚醒がよくわからなかった小村の心の旅は、自分の心の中に何を封印していたかを探る旅であったといえる。ジュンペイに続き小村が次に出会うのは、釧路で出会ったシマオという女性だ。  


「空気のようだった」と指摘された上に、妻に去られ、飼い猫もいない。しかもリストラの対象となった小村。小村は同僚の佐々木に頼まれた小箱を、佐々木の妹に渡すため釧路に旅行をする。佐々木の妹・ケイコは小箱を受け取り去る。その後、小村はケイコの友人・シマオとセックスしようとするが、彼自身の問題で不首尾に終わる。彼の世界の一部分を構成してたはずの「妻」も「ペット」も「仕事」もなくなり、ここでは「男性」という部分でも目標を達成することができない。「空気」のような小村には、もうなにも残っていないところまで削り取られるのだ。  


シマオが「小箱に入っていたのは、小村自身ではないか」と冗談を言ったのは、そんな状況だった。小村はそのとき圧倒的な暴力衝動を感じる。映画では彼女の首を締めるイメージがインサートされる。怒りは二次的な感情で、苦しい、辛いといった感情がいっぱいになると、自分自身を守ろために発動するものだという。シマオの小村の存在が“無”になったという冗談にしてはクリティカルな指摘は、小村の最後に残った「自分」という核を確認するトリガーとなった。小村はこのとき、怒りという形で「自分」というものを掴もうとしたのだ。  


フォルデス監督はこのシーンについて、村上のストーリーを少しひねってみましたとした上で「小村は箱とともに、自分の虚しさを手放しているんです。虚しさを手放すということは、自分の魂を見つめてくれる何かが戻ってくるスペースを与えること」(同)と語っている。いずれにせよ、箱を手放したことを巡るエピソードの中で、小村は自分をようやく再確認できたという理解は変わらないように思う。  


だからシマオは原作通り「まだ始まったばかり」とまるで予言者のような言葉を言うのである。  
このような小村の自己の再確認から始まる物語に対して、片桐とかえるくんの物語は非常にシンプルだ。



片桐は通勤電車でまどろんでおり、そこで片桐は宙を飛ぶみみずくんの中に囚われている。この映画オリジナルのイメージシーンに、かえるくんは登場しない。フォルデス監督は、かえるくんは片桐のアルターエゴ(別人格)であると説明するが、あえて解釈するならば、この夢の中で片桐がみみずくんの気配を感じたからこそ、かえるくんは現れた、というふうにも考えることができる。  


いずれにせよ“普通”に生きている小村と違い、片桐はもっと冴えない、もっと何も持っていない、取るに足らない(ような)人間として描かれる。本人の自己認識もそのようなものだ。そんな片桐が、かえるくんと協力して、東京を震災で救う使命を引き受けることになる。  


“普通”である小村がどんどんその“普通”を引き剥がされていくのに対し、片桐はかえるくんを通じて何もないところから、自分を発見していく。最後のかえるくんの戦いも、片桐は実際には意識を失っていて参加できるはずがなかった。しかしかえるくんは、意識を失った片桐が、東京の地下で繰り広げられたみみずくんとの戦いで、いかに勇敢に自分を支えてくれたかを語る。片桐もまた夢の中で覚醒したのである。  


すべてが終わったあと、片桐がかえるくんが語った『アンナ・カレーニナ』の本を買ったのは(これは映画オリジナルのエピソード)、彼の覚醒の勲章であり、同時にかえるくんとの友情の証なのである。  


では、キョウコは本作の中でどのように描かれたか。失踪までは小村の視点でしか描かれないキョウコ。彼女の内面に迫る手がかりとなるのは<5>のエピソードだ。



<5>は、失踪後にキョウコがとある男性に語る20歳の誕生日の思い出が中心となる。ポイントとなるのは、アルバイト先のレストランのオーナーに「ひとつだけ願いを叶えてあげる」といわれたとき、彼女は何を願ったのか。映画は、オーナーが手を叩いて願いを叶える瞬間、ヒロシと小村、そして自分が過ごした高校時代のイメージが短くインサートされる。つまり彼女の人生を考えるときも、小村が回想した<3>のエピソードは外せないということでもある。  


フォルデス監督はキョウコの願いについて「彼女の願いは、恋愛という若い頃の夢を諦めて、結婚するためにまっとうな人生を送ることなのではないか。私はそう考えたんです」(同)と解釈を語っている。  


そして現在「彼女は地震に魅了され、地震のニュースを見続ける。それはまるで、彼女の胃の中で地震が起こり、自分の人生を吐き出してしまうようなものです」という事態が起きたのだ、と。  


フォルデス監督の読解は確かにそのとおり映画に反映されているが、だからこそもうちょっと似て非なる言葉で言い表せるような気もする。  


例えばキョウコの願いを聞いたオーナーは「君のような年頃の女の子にしては珍しい願いのように思う」とリアクションする。そこで「普通の願いごと」の例として挙がるのは「もっと美人になりたい」「賢くなりたい」「お金持ちになりたい」である。個人的な私欲にどこまで忠実になるかはさておき、「まっとうに生きたい」と願うことが、そこまで「君のような年頃の女の子にしては珍しい」ことなのか。  


またキョウコの話を聞いていた男性は「願い事は叶ったのか。その願い事をしたことを後悔していないか」と彼女に尋ねる。  


キョウコは最初の質問については「イエスでありノー」と答える。理由は、人生は先が長いし、物事の成り行きを見届けたわけではないから。そして次の質問について「自分は自分以外にはなれない」というような台詞で返す。(原作は語り手の設定が異なるので、この台詞を含みながら少し異なる会話が展開されている)。この言葉を踏まえると、「まっとに生きる」というより「私らしく生きる」という言い方のほうが、より映画全体の中にうまくはまるように感じる。もちろん「まっとうに生きる」と「私らしく生きる」は直接衝突する概念ではない。お互いがお互いを含むような、そういう部分にキョウコの願いがあったということだろう。  



本稿の読みを敷衍(ふえん)するならば、「私らしく生きていた」つもりが、小村との関係にはやはり不自然な部分――ヒロシの記憶の封印――があり、同時に小村はそこに踏み込もうとしなかった。ながらくキョウコは、あの日語られた「眠る女」のように生きてきたが、小村は丘の上の小屋に向かうことはなかった。  


だから小村は空気のような存在といわれたし、キョウコは地震(とそれにまつわる死)によって、自分も記憶を封印してしまったことに気付いてしまった。そして地震のショックで覚醒したのである。  
では、あらゆるものを失った小村は最終的にどうなったのか。そんな小村の覚醒が描かれるのが<7>になる。  


小村が猫のワタナベを探して進む路地。そして行く手を思い緞帳のように遮る草むら。これは小村が夢で見る風景の変奏であり、それにより小村は夢と現の狭間のような空間へと踏み込んでいく。そしてそこで出会った少女に仕事と妻のことを尋ねられる。そのことによって小村はようやく自分の心の底に降りていくことができるようになる。やがて誘われるように、ベンチの上で小村は眠る。この眠りの中で、小村の覚醒がようやく訪れる。  


目を覚ますと少女は不在で、雨が降ってくる。「空気」のようだった小村に、今度はようやく(怒りに続いて)悲しみの感情がやってくる。それは喪失をようやく受け入れることができたからだ。そうして小村は、会社にリストラの提案を受け入れると電話を入れ、キョウコにはメールを送る。「君はどこにいったんだい? ねじまき鳥は君のネジを巻き忘れてしまったのかい?」  
悲しみの中、誰かに連絡をとるという構図は『ノルウェイの森』のラストと通じる部分がある。  


『ノルウェイの森』は主人公が「会いたい」という気持ちを相手に電話をすると、相手から「あなたはどこにいるの」と問い返され、主人公は自分が「どこでもない場所」にいると気付かされる。つまり主人公は会話を通じて、精神的迷子になってしまった、ということに気付かされるというラストだった。  


こちらは構図は似ていながら、着地点は違う。小村は怒りと悲しみを通じてようやく自分というものを取り戻しつつある。むしろ精神的迷子の状態を抜け出しつつある。  


キョウコに送ったメールは、原作に出てくる(原作は出かけている妻から猫探しを頼まれるという内容である)「ワタナベ・ノボル/お前はどこにいるのだ?/ねじまき鳥はお前のねじを/巻かなかったのか?」という一節をアレンジしたものだ。ねじまき鳥とは、世界のネジを巻く存在だと、小村とキョウコの間で勝手に語られていた存在だ。  


主人公はその日を「出鱈目な年の、出鱈目な月の、出鱈目な一日だった」と語っているとおり、原作の一節は、あまりに不条理なことが続いたことへの嘆息のようなものだ。それに対して映画で小村が送ったメールは、他者を改めて理解しようとしている第一歩だ。誰もがそれぞれ世界を持っていて、それぞれの世界のネジをねじまき鳥が巻いている。世界にねじまき鳥は一羽しかいないわけではない。そしてそれぞれのねじまき鳥の動きがズレることもある。  


映画は、新しい部屋で新しい生活を始めたキョウコの姿で締めくくられる。そして彼女の荷物の中から、ワタナベ・ノボルも現れる。小村の知らないところでまた別の時間が流れ始める。  


本作の根底には「死者を挟んだ三角関係」もあり、長編化したことで結果として『ノルウェイの森』の構図に接近している部分がある。また村上が「消える女」というモチーフを繰り返し描いているのはよく知られているとおりだ。しかし本作はそうした村上の描いてきた「消える女」のその後を、描いた。それはパンフレットに寄稿された児玉美月の原稿にも指摘されているとおりである。  


フォルデス監督は、原作には書かれていなかった「小村にとって一番辛いこと」「キョウコが20歳の誕生日に願ったこと」など原作では空白の形で、読者に投げかけられた「問い」について、長編化される過程でちゃんと「答え」を用意している。そして一番大きな、原作の「問い」に対する「答え」が、「消えた女のその後」を視覚化することだったといえる。  


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【藤津亮太のアニメの門V】過去の記事はこちら
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[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。    

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