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「小市民シリーズ」“互恵関係”を結んだふたりの中に潜む“異質性”【藤津亮太のアニメの門V 111回】

アニメ!アニメ! / 2024年10月20日 12時0分

『小市民』シリーズ第9話「スイート・メモリー(前編)」、第10話「同(後編)」にはとても興奮した。それは、原作『夏期限定トロピカルパフェ事件』を扱った第6話以降のエピソードの総まとめとして盛り上がった、というだけではない。もちろん原作のおもしろさ、脚色の巧みさはそのとおりだが、この2話は、ストーリーのおもしろさもさることながら第1話から積み重ねてきた演出的な積み重ねが、すべてはこの2話のためであったと納得させる、その映像の見せ方にある。


『小市民』シリーズは大雑把にまとめると、高校生の小鳩常悟朗と小佐内ゆきを軸に、ふたりの周囲に発生する、いわゆる“日常の謎”を解く物語だ。作中では推理することを“知恵働き”という言葉で表現している。しかしふたりは、推理で目立つことのない“小市民”を目指しており、その目的を共有した“互恵関係”を結んでいる。ところがふたりはそのように自らを律しながらも、推理することをやめられない。本作のポイントはそうした推理への欲望が、かつ探偵という存在が自然と帯びる傲慢さと結びついていることに触れている点だ。


第9話・第10話は、小佐内が誘拐されるという事件が終わったのエピソード。小鳩は小佐内と夏季限定トロピカルパフェを食べながら、その事件に関わる小佐内の企みを解き明かしていく。シチュエーションから自然と、テーブルで向かい合ったふたりのバストショットでの正面顔の切り返しが多い。本作は第9話に至るまで、そのような形の切り返しをほとんど採用してこなかった。


それまでは正面顔のバストショットがあっても、それを受けるのは横顔であったり、七三ぐらいの斜め顔であったり。また対話している相手の頭越しに(いわゆる頭をナメた状態)、話者の顔を正面から捉える形で対話を見せることもあった。いずれにせよ、正面顔と正面顔で切り返すという演出はここまで封じられており、だからこそ、ここで抜き差しならない対峙が行われている、ということが――普通であれば単調なほどシンプルなカット割りに見えてしまうはずにもかかわらず――異様な圧力でもって伝わってくるのだ。



ではこのふたりの対峙は、視聴者の意表を付く形で用意されたものか、といえばそんなことはない。エピソードのレベルでいえば、「表面的真相のに明かされるもう一つの真相」をめぐるシーンなので、視聴者が驚きをもって迎え入れるのは極めて自然なことではある。とはいえ第1話からの映像を振り返れば、ふたりの対峙の予兆はさまざまなところに見てとることができる。意表をつかれた、というよりは演出の合理的計算に基づいて、極めて自然な形でこの正面顔の切り返しは用意されたのだ。


例えば第1話「羊の着ぐるみ」は、高校受験の合格を知った常悟朗が小佐内と会うシーンから始まる。このシーンは、掲示板を背にした小佐内に、掲示板裏側方向からきた小鳩が声をかけるというステージングがなされている。この時ふたりの間の掲示板がちょうど「分割線」の役割を果たして、ふたりが存在する空間を分けている。こうしたふたりの空間をわける分割線は、第1話のいたるところに登場する。それはその時点では「親しげに見えてもふたりは恋人ではなく“互恵関係”である」という距離感の表現とも見える。だが第9話・第10話を前提にすると、この距離感の表現はやがて来る対峙の予兆にしか見えない。


作中で小鳩は「狐」、小佐内は「狼」に例えられる。オープニングでは互いの作る影絵と、戯れる2匹の獣の様子で表されている、ふたりの性格の違いを現す言葉だ。“知恵働き”による同質性を前提に“互恵関係”を結んだふたりの中に潜む、この異質性こそがこの分割線の根拠であったのではないか。


そして第10話では、小鳩と対話をする小佐内が「狼」の顔を見せる。それは敵愾心を見せる攻撃的な表情ではない。それはむしろ楽しそうな愉悦の表情である。視聴者は彼女がその笑みを浮かべた瞬間、「この顔を見たことがある」と思ったことがあるはずだ。


ひとつは第6話「シャルロットだけはぼくのもの」。小佐内のマンションの一室で繰り広げられる、フランスで生まれたケーキ・シャルロットをめぐる推理。“完全犯罪”を目論んだ小鳩に対し、チェスの駒を動かすような会話でチェックメイトをかける小佐内。“知恵働き”が好きなふたりのふたりだけの戯れ。チェックメイトの瞬間、小佐内は愉悦の表情を浮かべていた。


この時、完全犯罪を目論んだ小鳩は「相手が小佐内だからこそ挑んだのである」とも認めている。この「相手が小佐内だからこそ」という動機は、そのまま第9話・第10話の対峙のシーンに直結している。ただし第6話とは逆に、第9話・第10話の時は、小鳩が攻め手に回っているのだが。


そして次は第8話「おいで、キャンディーをあげる」。小佐内からのメッセージで、誘拐された彼女が廃墟の南体育館に拘束されていることを知る小鳩。彼は小学校時代からの知り合いである堂島とともに体育館に向かう。扉の隙間から様子をのぞくと、小佐内が犯人グループに囲まれ脅されている。彼女の危機を察し、小鳩たちが乗り込もうとした瞬間、小佐内は「あのっ」と声をあげる。ここから小佐内は、グループのメンバーにどんな暴力を振るわれたかを列挙していく。


この「あのっ」という一声の後、やはり小佐内は愉悦の表情を見せるのだ。第8話の中では、小佐内が助けに小鳩に気づいたから「あのっ」以降の啖呵を切ったと説明されるが、単純に「助けが来たことの喜び」の顔であれば、あんな表情にはならない。実際、小鳩はその表情に、小佐内が何かを企んでいることを感じ取り息を呑む。


第8話の小鳩のアップの後、第1話で最初に描かれた、橋の上のイメージカットがインサートされる。車道をはさんで左側に小佐内が、右側に小鳩がいる。第1話では車のいない道路を横断して小鳩が小佐内に近づく形でふたりの関係性が表現されたが、この第8話の時は小鳩は道路をわたることはできない。間を行き交う自動車が、ふたりの間の“距離”を強調する。


これは単に「狐」が相手を「狼」と認識しただけではない。小鳩が小佐内を助けに向かう時に挿入されるイメージでは、目隠しをされ川の中州に立っていた小佐内が、この橋の上のイメージシーンでは目隠しをはずしている。つまり小鳩はある種の違和感とともに、「囚われの身にあると思われた小佐内だが、本当は囚われていない」ことを直感したのだ。この直感から導かれた答えを確かめるため、第9話から第10話にかけての長い、ふたりだけ対話が行われる。


第10話の小佐内が浮かべた、演出の企みと、アニメーターとキャストの演技が見事に一致した愉悦の表情は、同質性の皮を被って水面下で進行してきた、「狐」と「狼」の異質性の物語のクライマックスとしてそこにあるのだ。




小鳩と小佐内の会話は、もちろんバストショットの切り返しだけで進むわけではない。続いてよく使われたのが、真横からふたりをとらえたロングショット。さらに小佐内の背後にある階段の手すりの間から小佐内の後頭部を見せるカットも繰り返し登場する。


横位置のロングショットは、時に隣のテーブルに置かれた器が境界線として配置されるなど、第1話から描いてきたふたりの距離を再確認するかのように挟まれる。一方、階段の手すりの間からのぞくカットは、小佐内の表情だけでなく、小鳩の顔も小佐内に重なってまったく見えない。左右に手すりの柱がある狭苦しいレイアウトは、小佐内が現在、置かれている状況を端的に現している。これが小鳩が具体的証拠を挙げて、小佐内に迫るくだりになると、カメラ位置が少しずれて、手すりの柱の間の狭い空間に小佐内の後頭部をなめて、小鳩の顔が見えるようになり、さらに小佐内が追い詰められていることが強調される。


第9話・第10話では、イメージシーンもポイントポイントで挿入される。まずシャッターの降りた商店街の中に立つ小佐内。途中からここに小鳩も登場する。この商店街は、通りの行く先が見通せず、まるで迷宮のようだ。そこは現在、対話の中で進行している論理の迷宮なのだ。その中を小佐内は歩き、小鳩はその後をついていく。接近しては離れていくふたり。それは小鳩の推理と小佐内の反応が反映されている。


最終的にこの商店街の出口に、ふたりが会話している喫茶店「CAFE CECILIA」のソファが登場する。論理の追いかけっこは終わり、そこからは企まれたことの倫理性をめぐる話がスタートする。露出オーバーで白く明るい出口の向こうに道行く人が描かれているのは、倫理という形で“社会”との関係性が問われる展開だからだろう。小鳩からの最終的な指摘を受け、小佐内は手を口ものとに運び、「自分がどこにいるかわからない」といったふうに左右を見る。小佐内は“迷路”を正しくクリアしたつもりが、いわれてみれば想像もしない場所に出てしまったのである。


この後、小鳩が“小市民”を志すに至った中学校時代の体験が象徴的に描かれる。そして小佐内の「ねえ、小鳩くん、私たちもう一緒にいる意味ないよ」という台詞が入る。この時、小佐内は商店街ではなく、川の中にいる。


このイメージの川は第1話でふたりが“互恵関係”にあるということを描いた時にも出てきた。第1話では先に、小佐内が川に入り、そして小鳩もまた川の中に足を踏み入れた。しかし第10話では小佐内が川にいても、小鳩はまだ商店街の中にいる。


小佐内は「口では小市民っていいながら、本当はそうじゃないと思っている。(略)本当に小市民になることなんて考えてもみない」と語る。この時、小佐内は「口では小市民っていいながら」と川の上流に流れに逆らって歩き、向きを変えて「本当に小市民になることなんて考えてもみない」と川の流れのままに下流に向かって歩く。


川の流れとはつまり「推理の快楽」であり、第1話では小市民としての“互恵関係”の象徴に見えた川が、実はふたりの関係が“互恵関係”という皮を被ったある種の共依存であったことを自覚する場所へと転じる。そして河原に現れた小鳩は、川に入ることはない。小鳩は小佐内の言葉にうなずくしかないのである。


このように第9話・第10話の、ソリッドな演出で見せる室内での会話劇と、ふたりの関係を象徴性を使って見せるイメージシーンは、どちらもシリーズの最初から積み重ねてきたさまざまな描写の結節点として配置されている。ひとつずつ必要なパーツをある種の違和感をもって配置し、それが最後に大きな真実の一部であったとわかる。本作の演出は、そんなふうにミステリーのように組み立てられていた。その企みと徹底にこそ、興奮せざるを得ないのだ。


なお第10話で、ひとつ気になるカットがある。イメージの河原で小佐内と言葉を交わした小鳩は、振り返って土手に立つ電波塔を見上げる。どうしてここで電波塔なのか。


河原にある目立つ建造物としてしばしば画面に登場してきたこの電波塔。イメージシーンだと第8話で、誘拐から解放された小佐内が小鳩に礼をいうシーンで印象的に登場している。小佐内が頭を下げる瞬間、背景は事件現場ではなく、イメージの河原の電波塔がふたりの間に建っているのだ。初見の時は、これもまた「分割線」の一種かと思ったが、ここに電波塔が召喚されたのはそれだけではなさそうだ。でなければ第10話で小鳩が電波塔を振り返りはしないだろう。


これは勘ぐり過ぎで単に論理の迷宮に入っているだけなのだろうか。それとも何か読み解きに必要なピースを見落としているのか。企みの明確な演出が魅力的な作品だからこそ、第2期が始まるまでまだ何度か見直して、その細部をあれこれ考える楽しみが残っているようにも思う。




[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。


  

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