現実とナレーション(ペドロ・アルモドバル)

AOL ミュージック / 2012年10月20日 9時0分

フィクションを懸命に作っている時に時々起こることだが、重要な事はどこか違う所で起こっているのではないかという感情に襲われることがある。その感情は、自分が気を配りながら熱心に作り出している物語よりも遥かに強烈なものだ。
現代人は1日にその日の分のフィクションが必要だというのは本当で、それがなければ私達はどうやって生きるかが分からないだろう。しかしそれと同時に、多くの場合において、テレビやコンピュータ画面から流れてくる現実の轟はとても強烈なもので、私達に息を出来なくさせ、それに比べて映画がちっぽけなものだという感情にさせられる。

それがこの火曜日に私に起こったことだ。私が仕事をしている時、国会開催中におびただしい市民の波がネプチューン広場に押し寄せ、市民を代表していると主張する政治家に異議を唱える権利を訴えたのだ。この人間の波の叫びは包囲され、ネプチューン広場に待機する1300人の強力な機動隊に時折殴られて引きずられた。その様子は世界中の新聞の一面を飾った。けれども、ニューヨークにいるマリアーノ・ラホイ首相の注意を引くことは出来なかった。Americas Society/Council of the Americasに対する声明の中で、ラホイ首相は現実を彼の都合のいいように解釈するという習慣により、「抗議しなかった物言わぬ多数派のスペイン人」に感謝したのだ。

ラホイ氏よ、私は9月25日に抗議しなかった物言わぬ多数派の1人だが、私の沈黙の意味をねじ曲げたりいいように解釈したりしないで頂きたい。

私がネプチューン広場に姿を現さなかったのは、警察の攻撃や議員の過剰反応、国営テレビ局のイメージ操作に憤慨していないからではない。または自分たちは名乗りもせずに観光客を脅し、カメラマンに仕事をするのを禁止したアトーチャ駅(国会から遠く追い払われた)の公務員の生意気な態度に憤慨していないからでもない。朝から町が包囲されているのを目の当たりにして、マドリード市民がデモ隊に敵対するだろうと決めつけた事に対して、私も怒りを感じている。(ミッション失敗:我々マドリード市民は沈黙や叫びの中で苦しんでいる、そして市庁舎から我々を統治する人々や自治体の人々、閉鎖的な選挙リストに名前が載っていたというだけの運命で選出された人々のことを信じてはいない)。

イメージ、そしてそれを取り巻くすべてのものが巧みに操作される:色、言葉、ジェスチャー、意図--それらはナレーターによって決まる。それを語る人の興味によって、与えられた任意の現実は1つのことを表すかもしれないし、その反対を意味するかもしれない。政府の代弁者や大統領自身は、彼らの好きなようにネプチューン広場で起こったことを語る事が出来るのだ--それは彼らがいつもやっていることだ。しかし幸いにも近代では、たとえどれだけカメラを抱えている人たちに警察官が暴力を加えたとしても、ただ1人のナレーターになる事は不可能だ。

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