美輪明宏、初体験の相手は「先輩の男子」

アサ芸プラス / 2012年12月11日 9時59分

 美輪が生まれ育ったのは、長崎の「丸山遊郭」に近い繁華街で、実家はカフェーや料亭を営んでいた。カフェーとはキャバレーの前身である。

 10人兄弟で、1人の兄を除いて全て腹違いという複雑な家族構成だったが、家業の景気はよく、裕福に育ったという。

 ベテラン芸能記者が語る。

「美輪が10歳の時に、長崎に原爆が落とされました。そんな悲惨な経験をしながらも、ミッション系の中学から高校に優等生として順調に進学していったそうです。そして、幼い頃より遊女の人生をかいま見てきただけに、色恋に関して早熟だったことは本人も後年に語っていますが、中学1年生で迎えた初体験の相手は先輩の男子だったといいます」

 のちに「神武(じんむ)以来の美少年」と称された美輪だが、その美貌で10代から“ボーイフレンド”には不自由しなかったというのである。

「中学3年時にはすでに“とっかえひっかえ状態”だったそうで、20代前半に受けた雑誌のインタビュー記事でも、『今、つきあってるのは20〜30人』と豪語していたほどモテ続けていました」(前出・ベテラン芸能記者)

 性的に満たされた生活を送る中、美輪は歌手を目指し、15歳で上京。音楽学校に通うようになった。しかし、帰郷した際に父親が生活苦の親戚を見捨てる姿に激怒し、大ゲンカした末に、絶縁を言い渡されてしまう。

 仕送りも止まった美輪は学校も辞め、食うや食わずの生活から、バーテン、ゲイバー勤めなどを経験し、ついに前名・丸山明宏の名を知らしめた、シャンソン喫茶「銀巴里」で歌手として才能を開花させ始めた。

 ところが、実家の商売が傾き、かつて自分を勘当した父親が金の無心に現れたというのである。

「さまざまな葛藤がありながらも、美輪は弟たちの生活の面倒を見るために、アルバイトとして進駐軍のキャンプやキャバレーで歌って稼いだんです」(前出・ベテラン芸能記者)

 そんなブレイク前夜の苦労時代を経て、ようやく57年、フランスのシャンソン「メケ・メケ」をカバーしてヒット。広く世に知られるようになったのである。

 当時を知るプロダクション関係者が証言する。

「世間に顔が売れれば売れるほど、時代が時代だっただけに色眼鏡で見られたね。同性愛者という存在に市民権など与えられていない時代だった。それでも美輪さんは、『男の腐ったみたいなゲイボーイ』などと罵倒されながら正面から受け止め、逃げ隠れせずに戦ったんだ」

 その後、65年に「ヨイトマケの唄」で復活するまで、再び不遇に見舞われることにもなったが、「化け物」扱いされようが、美輪が自身を曲げることはなかった。

 ところで、美輪といえば常々、「天草四郎の生まれ変わり」などと口にするが、実は、彼が最初にそれを初めて認識したのは、この時期だったという。

「あくまで本人いわくの話ではありますが、銀巴里で『メケ・メケ』を歌っている頃に、霊感のある学生から『あなたの背に血だらけのサムライの顔が見える』と言われたのが始まりで、その時は信じなかったものの、そういった指摘をされることがたびたび続いた。それから10年ほどたち、30代前半に、ある行者から『前世は天草四郎』と告げられたことをきっかけに、いよいよ自分で語るようになったんです」(元出版関係者)

 法華経の熱心な信者であることでも知られる美輪だが、72年に「丸山」から「美輪」に改名したのも、仏壇でお経を読んでいる際にお告げがあったからだという。

 近年では「オーラの泉」人気で「前世」や「オーラ」などのスピリチュアル・ブームが訪れ、美輪の霊的能力に注目が集まったものだ。

 テレ朝関係者が言う。「ブームに乗っている他の霊能力者はともかく、美輪さんは間違いなく見えているという評判が立ち、信奉するタレントみずから、番組進行役の国分太一を通じて出演志願するケースまでありました。一方で、ゲストの人選について美輪さんが、『あの子は運気が悪すぎるから呼ばないで』と、見えすぎるがゆえに気を遣って拒むこともあった」

 怪人の実像が浮かんでくるばかりか、幻想までもが膨らむ一方なのである。

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