女優・大原麗子の情念、私を女優と呼ばないで!

アサ芸プラス / 2013年3月12日 10時0分

 大原麗子の経歴を見て驚かされるのは、大女優と思えぬ圧倒的な仕事量である。端役でフル稼働だった東映の新人時代はともかく、主演の座を獲得した70年代後半から90年代になっても「掛け持ち」は続いた。

 麗子の唯一の兄弟である弟・政光は、その理由を口にする。

「姉は早くから自分の事務所を構えて、スタッフの給料はもちろん、メイクや結髪やスタイリストも自前だったんですよ。姉はNHKのドラマも多かったけど、ご存じのようにギャラは高くない。経費を引いたら赤字です。NHKで4日拘束されたら、残りの3日で民放のドラマをこなし、こうしたお金を作っていた」

 また80年に再婚した森進一は、歌謡界の重鎮ではあるが、前年に起こった「渡辺プロからの独立」の余波で、干された時期だった。2人の新居の光熱費もお手伝いの給料も、麗子がせっせと稼いでいたという。

 もっとも、決して「守銭奴」ではなかった。仕事の量こそこなしても、納得しない脚本や演出には首をタテに振らなかった。たとえば映画デビューの「孤独の賭け」(65年、東映)では、先輩の佐久間良子の従妹役で共演しているが──、

「佐久間さんが姉を引っぱたくシーンで、監督のOKは出ているのに『もう1回、本気でやってください』と言ったんですよ。ふつうは先輩の佐久間さんとのからみで、そんなことは言えないんでしょうけど」

 弟には新作のたび「どうだった?」と聞いてくる。ただ「良かったよ」と答えると、とたんに叱責される。

「ちゃんと見なさい。どこがどう良かったの!」

 後年、さる高名なアニメ監督から声優としての出演依頼が舞い込む。これにはあっさりと辞退した。

「私は声優ではないので」

 監督からはさらに高額の条件を提示されたが、それでも実現することはなかった。

 麗子にとって女優としての分岐点は2つある。1つは「獄門島」(77年、東宝)における市川崑との出会いだった。それまでハスキーではあるが、ドスの効いた声の出せない麗子に、市川はアドバイスした。

「下っ腹に力を入れて声を出してごらん」

 それによって声が裏返ることなく、感情の高まりを表すシーンの発声が可能になった。

 麗子がもっとも支持されたと言っていい「サントリーレッド」のCMは、この市川が当初の演出を担当している。

〈少し愛して、長く愛して〉

 誰もが一度は耳にしたであろうフレーズとともに、コケティッシュな麗子の魅力が満開となる。当時、サントリーレッドは最下級に位置するウイスキーではあったが、市川が演出することと「大衆に愛される商品」の2点で出演を了承したという。

「姉は市川監督と出会った頃から『女優』と呼ばれることを嫌いました。私は『俳優』だという意識になったんです」

 その強い意識は、後に「悲劇」を生むことにもなるのだが‥‥。

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