萩本欽一「決して拳を振るわなかった大先輩 東八郎さん」(1)

アサ芸プラス / 2013年8月13日 10時0分

 僕がコメディアンになるきっかけを作ってくれたのは、中学2年生の時の担任、杉田静枝先生でした。

 髪の毛が長くて、あだ名は「アパッチ」。クラスでは、先生が教室に入ってくる前に、あだ名を黒板に書き、入ってくる寸前、消して自分の席に戻るというイタズラがはやっていました。

 当時の僕は引っ込み思案な性格で、そういうイタズラにはまったく加わらなかったのですが、ある時、クラス一のワンパク坊主に誘われ、しかたなく黒板に先生のあだ名を書きました。

 とたんに、

「先生が来たぞ!」

 ワンパク坊主はすばやく消して席に戻ったのですが、僕のほうは泡を食って消すのも忘れ、席に戻りました。

 黒板のイタズラ書きを見た杉田先生は、

「誰なの? これを書いたのは」

 教室中、水を打ったようにシーンです。

 もう一度、先生が、

「誰なの?」

 観念した僕は、

「僕です!」

 震える声で手をあげました。

 すると、杉田先生が、

「萩本くん、男の子はこれくらいのイタズラをする勇気がないとダメなのよ」

 怒られると思っていたのにその言葉です。僕は感激し、

「よ~し、先生の授業の時は、勇気を出して手をあげよう!」

 と決めました。ただ、張り切りすぎて、答えがわかっていない時でも手をあげてしまうんです。

 杉田先生が僕を指さし、

「萩本くん!」

「ハイ、わかりません!」

 クラス中が大笑い。

 そんなことが重なるうちに、僕は人に笑われることが嫌じゃなく、逆に「人を笑わせるのって気持ちいい」と思い始めたんです。

「僕はコメディアンになる!」

 高校を卒業すると、父親の知人の紹介で、浅草の「東洋劇場」にコメディアン兼雑用係として入社します。

 当時の「東洋劇場」は、コントとストリップの二本立てでした。

 浅草の豆腐屋さんの2階に下宿し、コメディアン修業を始めた僕の面倒をいろいろと見てくれたのが、「東洋劇場」の5歳上の先輩、東八郎さん(1988年死去・享年52)です。

 若い人には、「安めぐみさんと結婚した東貴博くんのお父さん」と言ったほうがわかりやすいと思います。

 浅草の芸人の修業というのは、ものすごく厳しく、先輩に殴られたりするのはしょっちゅうでした。

 東さんは「東洋劇場」では座長クラスで、僕の師匠です。怒られたり殴られたりするのは当然です。

 でも、東さんって絶対に殴らないんです。怒らないし、すごく優しい。

 僕は一度、「どうして怒らないんですか?」と聞いたことがあります。

「オレはな、欽坊くらいの時には、毎日、先輩から殴られたり、怒られたりした。『そうやって教えるのが、浅草の伝統だ』って言われた。でもなぁ、欽坊。オレは違うと思うんだ。

 先輩に殴られながら、『オレは先輩という立場になっても、絶対に若い人たちを殴らないぞ!』、そう決心したんだよ。殴るのって嫌だし、殴られるほうも嫌だもんなぁ」

アサ芸プラス

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