歴代総理の胆力「橋本龍太郎」(2)「硬構造ビル」政権の限界

アサ芸プラス / 2020年6月18日 9時55分

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 橋本内閣は、自民党が社会党の村山富市を「自社さ」3党連立政権の首相に担ぎ、小沢一郎が率いた非自民連立政権から政権を奪還、村山内閣がその役目を終えたのちに発足した。その橋本政権スタート時は、「若武者」登場もあってか国民人気も高かった。

 政権の前半は、なるほど「仕事師」ぶりを発揮した。外交では、沖縄の普天間飛行場の返還を、クリントン大統領との間で「日米安保の再定義」の位置付けとして確認した。これは歴代の政権が揃って“逃げ腰”だったにもかかわらず、官僚に任せず自ら決断したものだった。

 また、内政では行政、財政、金融システム、経済構造、社会保障構造、教育の「6大改革」を掲げ、時代の変革による必要性に果敢にチャレンジした。とくに、各省庁が嫌がる行革では、内閣府の設置、省庁の統廃合など中央省庁の1府12省庁の再編実施を果たしてみせたのだった。

 しかし、政権後半は「山一証券」破綻に象徴される「平成恐慌」の中、橋本は先の「6大改革」のうちの財政改革にこだわったことで、結局、これが政権の命取りとなった。

 財政再建のためとして増税の必要性に固執、折からの参院選で惨敗し、引責辞任を余儀なくされたということだった。選挙前に、自民党内の「選挙に勝てない」コールに負けて増税策を引っ込めたものの、こうした政策転換が逆に政権の信頼感を失わせる形になったのである。

 残念だったのは、他の自民党内派閥はもとより、当時の所属の小渕(恵三)派からも引責退陣への反対論がほとんど出なかったことだった。

 当時の小渕派のベテラン議員は言っていた。

「あれだけ政策に通じ、頭の切れも抜群だったのに、人望がなかった。気位が高く、向こうっ気が強い自信家だから、筋が違うとなると誰に対しても徹底的にやり込める。

 相手を土俵の外まで追い出してしまうから、かわい気がないということだった。

 だから、橋本には人が集まらず、子分ができなかった。要するに、結局は“一匹狼”で終わってしまった。外からのエネルギーを吸収できない『硬構造ビル』の政権だっただけに、“激震”には耐えられなかったということだった」

 無念の退陣だった橋本は、小渕が死去したことで派閥を引き継ぎ橋本派としての会長に就いた。そのうえで、再び総理のイスへの“雪辱戦”に挑んだのだった。

 平成13(2001)年暮の自民党総裁選に出馬、小泉純一郎に挑んだが、党内の求心力はもはや集まらなかった、「一匹狼」の限界ということであった。

■橋本龍太郎の略歴

昭和12(1937)年7月29日、東京都生まれ。慶応大学法学部卒業後、呉羽紡績入社。昭和38(1963)年10月、26歳で衆議院議員初当選。自民党総裁選で小泉純一郎をおさえて総裁就任。平成8(1996)年1月、橋本内閣組織。総理就任時58歳。平成18(2006)年7月1日死去。享年68。

総理大臣歴:第82・83代 1996年1月11日~1998年7月30日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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