歴代総理の胆力「小渕恵三」(2)小沢一郎との「死闘」に敗北

アサ芸プラス / 2020年6月25日 9時55分

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 しかし、政界はまさに「一寸先は闇」である。

 小渕は平成11(1999)年秋の自民党総裁選で、加藤紘一、山崎拓の挑戦を受けたが、圧倒的勝利で「再選」された。加藤、山崎の両人があえて立候補したのは、総裁選後の小沢一郎率いる自由党の連立参加問題にあった。小沢が改めての連立参加条件として、衆院議員定数の削減、閣僚などが責任を持って国会答弁をすべしとする政府委員制度の廃止、安全保障問題などを挙げたことに、加藤、山崎両人は極めて不満だったということである。

 しかし、小渕は「あの小渕がここまでやるか」との党内の声をよそに、総裁選後の改造人事でこの加藤、山崎両陣営からの入閣、党役員を締め出すという強硬策で、「自自公」連立の継続での政権基盤確立を狙ったのだった。ために、小渕は例えば小沢が掲げた衆院議員定数50削減は飲めなかったものの、20の削減を決断した。結果、これは衆院で衆院比例区定数削減法案として成立、あとは参院での成立を待つことになった。

 ところが衆院は通過したものの、小沢がこんどは20削減では満足できずとして、連立離脱の可能性をチラつかせ始めた。「自自公」3党の党首会談でも最後まで小沢は譲らずで、ここに至って小渕はついに自由党との連立解消を決断したのだった。

 その小沢との会談後の記者会見のさなか、小渕は体調を崩し、その後、官邸で倒れた。秘かに順天堂病院に運ばれたが、すでに回復の見込みの立たぬ重度の脳梗塞であった。

 小渕は退陣を余儀なくされたが、当時の小渕派の幹部からは、こんな声が聞かれたものだった。

「小渕はじつは、師匠の竹下元総理よりしたたかだった。総理になるまで、一度としてしたたかさは見せなかったが、それだけにそれを見せたときのインパクトは竹下以上のものがあった。党内に敵はほとんどいなかったし、元気なら意外と長期政権となった可能性があった」

 惜しむらく、小沢一郎との「死闘(デスマッチ)」に負けたということでもあった。

■小渕恵三の略歴

昭和12(1937)年6月25日、群馬県生まれ。早稲田大学文学部を経て、世界一周の旅に出る。昭和38(1963)年10月、26歳で衆議院議員初当選。平成10(1998)年7月、小渕内閣組織。総理就任時61歳。在任中の平成12(2000)年5月14日、入院先で死去。享年62。

総理大臣歴:第84代 1998年7月30日~2000年4月5日

小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。

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