日本レコード大賞 炎の四番勝負!<第2回>「1978年~沢田研二VSピンクレディー~」(2)

アサ芸プラス / 2013年12月11日 9時58分

「デビューした76年に新人賞、翌年に大衆賞、そして3年目にレコード大賞を獲りに行こうと思ったよ」

 それがピンク・レディーを擁した「T&Cミュージック」の社長・貫泰夫の思惑だった。

 決しておおげさな表現ではなく、当時の歌謡界は“ピンク旋風”が吹き荒れていた。4枚目のシングル「渚のシンドバッド」が100万枚を突破すると、5作連続でミリオンを達成。1位獲得曲も9作連続と、まさしく記録づくめだった。そして3年目の78年、貫らスタッフはこんな青写真を描く。

「ラスベガス進出、後楽園球場でのコンサート、そして暮れのレコード大賞というプランで、1つ1つ実現させていったよ」

 日本テレビの「スター誕生!」に応募してきた当時のミー(根本美鶴代)とケイ(増田恵子)は、さわやかなフォークデュオを形成。それがデビューすると「超ミニで脚パカパカ」の路線に転向する。

 もちろん、本人たちの意思ではない。作詞・阿久悠、作曲・都倉俊一、ディレクター・飯田久彦、振付け・土居甫、衣裳・野口庸子というプロフェッショナル集団によって作られた「ピンク・レディーという商品」だったのである。

「最初はキャンディーズを意識していたけど、ただ、衣装はピンクのほうが高かったかな。1着につき30万円くらいかかったと思う。ミーが165センチ、ケイが163センチと当時のアイドルとしてはスタイルが良かったから、衣装を着るとオーラを感じたね」

 貫は証券会社を辞めて芸能プロを立ち上げた珍しいケースである。そこに総会屋の大物である小川薫が事実上のオーナーとなり、ピンクは前例のない「セールス」と「戦略」を重ねてゆく。その最たるプランが、レコード大賞を狙いながら「紅白歌合戦」を辞退するというものである。

「その年の6月頃に、ふと、ウチの制作部長だった相馬一比古に『ウチの子たちが紅白を蹴ったらどうだろう?』と提案したんだよ。その代わりに裏番組を持たせようと最初はTBSに打診し、結果的には日テレで特番を組むことになった」

 78年という時代に、歌謡曲のフィールドにある者が「紅白」をボイコットする。結果的にこのことが世間の反感を買い、人気下降につながっていった。

 余談だがこの当時、沢田はたびたび「T&C」に遊びに来ていたと貫は言う。

「相馬がナベプロ出身ということもあってジュリーはフラッと顔を見せていたね。俺もチケットを買ってコンサートを観に行ったのは中野サンプラザのジュリーだけ。あれはいいステージだったよ」

 また沢田のライバル観も独特だったとマネジャーを務めた森本が言う。

「布施明、森進一、五木ひろしとの『四天王』と呼ばれていたが、沢田のライバルはその時代で1番売れている人。あの年は百恵ちゃんやピンク・レディーだと口にしていました」

 そんな両者が正面からぶつかったのは、78年の大みそかである‥‥。

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