“日本のリバプール”博多スーパースター列伝<第2回>チューリップ(1)

アサ芸プラス / 2014年1月10日 9時58分

 日本で初めて本格的に「ポップス」と取り組んだバンド──それがチューリップである。結成から40年以上が経っても名曲は色あせず、今も鮮烈に“青春の光と影”を映し出す。その背景には、彼ら自身が博多から上京し、もがき続けた日々が重なり合うのだ。

「お前ら、次の歌が売れなかったら博多に帰れ!」

 そんな非情の言葉は、シンコーミュージックの総帥・草野昌一から発せられた。草野は「漣健児」のペンネームを持つ訳詞家でもあり、中尾ミエの「可愛いベイビー」など、60年代ポップスのほとんどを和訳してきた。

 ただし、シンコーの専属アーティスト第1号のチューリップに対して、和製ポップスのような「甘くやさしく」は一切なかった。特に詞に対しては、すべての詞曲を手がける財津和夫に対し、ドラスティックな言い方をしていた‥‥。

 そんな財津の“デビュー前夜”を、福岡・RKB毎日のディレクターだった野見山実は目にしている。

「彼がまだ西南学院大学で『フォークメイツ』というアマチュアグループだった頃ですね。それから『ザ・フォーシンガーズ』を結成して、大学対抗のコンテストにもよく出ていました。洋楽志向の熱心なバンドという印象でしたね」

 チューリップがアマチュア時代に自主製作盤で出した「柱時計が10時半」も購入し、伝説のライブ喫茶「照和」にも何度か観に行った。若くして名曲を作り出す才能は、井上陽水の「持ち込みデモテープ」を最初に聴いた野見山の耳にも十分に響いたのだ。

 財津はこの時代のミュージシャンと同じく、博多・天神の映画館で観たビートルズの「A HARD DAYS NIGHT」に衝撃を受けた。財津いわく「脳みそが全部入れ替わった」ほどである。そしてビートルズと同じスタイルのバンドを形成したのがチューリップであった。

 そんな財津の作ったデモテープを、東芝EMIのディレクターだった新田和長が“発掘”する。実は70年7月に「私の小さな人生」でプレデビューしているが、これは不発に終わった。

 博多へ戻った彼らのもとへ5人ものスカウト陣がやって来たが、その1人が初代マネジャーとなる西田四郎である。西田は、草野社長や新田とともに、福岡・電気ホールのイベントを観る。

「歌も良かったけど、幕間に小芝居をやるようなアイデアがおもしろかった。実は草野社長はプロダクション業務に興味ない人だったけど、これからはミュージシャンを後押しする時代だと感じたようですね」

 その日の夜には財津をホテルに呼び、東京に来る気があるかと聞く。財津は、きっぱりと答えた。

「条件とか特にありません。僕たちはコッペパンをかじってでも、プロとして生きていけます」

 西田が驚いたのは、財津があらかじめ「メンバー5人の献立表」を用意してきたことだ。月曜の夜はインスタントラーメンなど質素なメニューが並び、週あたり何千円かあれば5人がやっていけるという覚悟を書き出していた。

 その高い音楽性だけでなく、この「献立表」がスタッフの心をつかんだと西田は思った。

「チューリップは東京に行ってプロになりますが、決して博多を忘れません」

 旅立ちコンサートで放った名セリフである──。

◆アサヒ芸能1/7発売(1/16号)より

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