ピンク・レディー 「モンスター神話」の真実(5)いつもコタツで力尽きていた

アサ芸プラス / 2014年8月6日 9時58分

 ピンク誕生から2年後、78年6月に同じビクターからデビューしたのがサザンオールスターズである。バンドの顔である桑田佳祐は、飯田のもとを訪れて不安そうに言った。

「このタイトルを一言、阿久先生に伝えてもらっていいですか?」

 そのデビュー曲は「勝手にシンドバッド」だった。沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクの「渚のシンドバッド」を掛け合わせたもので、いずれも阿久の手による詞だ。

 飯田から伝えられた阿久は、膝を打って即答した。

「それはおもしろい、そういうユーモアが一番いい」

 それは、自分たちのピンク・レディーという作品展開にも共通することだった。いかに世間を驚かせ、いい意味でファンを裏切っていくかの勝負でもあったと飯田は言う。

「僕も阿久先生も曲のタイトルは大事だと思って、それぞれ20や30はポケットに忍ばせていましたね。それを先生と突き合わせながら『これがいい』『いや、ユーザーを裏切るにはこれでいこうよ』というように議論していた」

 とりわけ飯田が大事にしたタイトルが7枚目のシングル「サウスポー」である。78年3月に発売され、ピンクの全シングルで2位となる146万枚のセールスを記録。

 ただし、レコーディングの前夜に異変が起こった。

「詞も曲も今ひとつピンと来ない。ピンクの新曲といえばプレス工場を空けて待機しているんですが、それでも、このままでは出したくないと思ったんです」

 都倉の曲はゆったりとしたミディアムテンポ調。幸い、ストックの中に飯田のイメージに合うアップテンポの曲があったので入れ替えた。そして阿久には、その曲に合わせて全面的に書き直してもらった。

「それは阿久先生もムッとしたと思います。ただ、常識を覆すものを作りたいという信念がありましたから、そこは引けませんでした」

 阿久が一晩で書き直した詞は〈背番号1のすごい奴が相手〉と始まる、まさしくアイドル歌謡の常識を打ち砕く世界観だった。阿久は後に、もしあのまま平板な詞で「サウスポー」を発売していたら、ピンクのブームは急速に終焉していたのではないかと述懐している。

 そんな大ブームの渦中に、同じ「T&Cミュージック」から“ピンクの妹分”としてデビューしたのが天馬ルミ子だ。中1でデビューした天馬は、学年で7つ上の2人を憧れの目で眺めていた。また、相馬マネジャーの母親が住んでいた渋谷区富ヶ谷の一戸建てを寮代わりに、同じ屋根の下で暮らしたこともある。

「ただ、ピンクの2人がベッドに横になったのを見たことがありませんでした。いつも明け方に帰ってきて、居間にあったコタツに入って、ガウンだけ羽織って仮眠を取る。そんな毎日でしたね」

 天馬は、さらに過酷な日々にも同行することとなった。

アサ芸プラス

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