中森明菜 孤高の歌姫の「光と影」(1)しおれた花に涙する一面も

アサ芸プラス / 2014年8月19日 9時58分

 その昔、中森明菜という閃光を放つ歌姫がいた。82年にデビューすると瞬時に“時代のエクスタシー”を浴び、数々の栄冠に輝く。やがて、トラブルばかりが目立ち、いつしか「歌を忘れたカナリア」となった。そして今──復帰の動きもあるが、はたして自身の〈光と影〉を乗り越えられるのだろうか‥‥。

「第28回日本レコード大賞は──『DESIRE』を歌った中森明菜!」

 86年12月31日、日本武道館では栄光の頂点に立つ中森明菜の姿があった。この年、創刊されたばかりの写真誌でマスコミ業の末席に身を置いた筆者は、いわゆる「明菜番」を担当し、大みそかの会場にも居合わせた。21歳にして威風堂々、それがステージに立つ明菜を見ての素直な感想だった。

 82年にデビューした明菜は、3曲目の「セカンド・ラブ」以降、ほとんどのシングルでチャート1位を獲得。レコード売り上げ以上に顕著だったのはカラオケにおける人気で、松田聖子や小泉今日子を遠く引き離し、OLたちが歌うのは明菜ばかりという日々だった。

 大賞曲の「DESIRE」も、着物をアレンジした衣装やボブの髪型、大胆なアクションまですべて明菜の意向である。低く抑えた序盤から、ビブラートを効かせてサビをドラマチックに歌い上げる“明菜スタイル”が完成すると、もはやアイドルではなく、孤高のカリスマに君臨したのだった。

 ただし、その一方で明菜は決して「波風の立たない歌姫」ではなかった。「明菜の代わりに謝罪に行くことも1度や2度じゃなかった。いや、皮肉じゃなくて社長業を教えてくれた先生だったよ」

 明菜がデビュー前から89年まで所属した「研音」の社長だった花見赫(あきら)が懐かしそうに言う。

 花見は日本テレビの音楽ディレクターから転身し、81年に弱小事務所だった研音の社長に就任。すぐに堀江淳の「メモリーグラス」を大ヒットさせ、続いてピンク・レディーを解散した増田けい子(現・恵子)を預かり、ソロデビューの「すずめ」をヒットさせる。

 そして明菜は81年11月18日に収録された「スター誕生!」の決戦大会に出場。実に11社がスカウトのプラカードを上げたが、増田の「すずめ」を売った実績から事務所は研音に、レコード会社はワーナー・パイオニアにと振り分けられた。

「心根はやさしい子だったんだよ。一緒にレストランに行くと、テーブルの上の花がしおれそうになっているんだな。それを見て鉢植えを抱きしめて『どうしてこんなになっちゃったの‥‥』と涙をこぼすこともあったから」

 純粋であるがゆえ、ストレートな物言いをすることも多かった。例えばデビュー翌年に出版されたエッセイ集「本気だよ」には、こんな記述がある。

〈私はバカだからバカな高校しか行けなかったの〉

 明菜は「大東学園→明大付属中野高校定時制中退」が最終学歴だが、すぐに学校側から抗議が来たと花見は言う。

「実際にはライターの人が書いたものだけど、学校からすれば事務所の責任。私が学校まで謝りに行きましたから」

 またデビュー直後にしてマネジャーが何人か交代した。そのことは明菜の“武勇伝”として独り歩きするようになった──。

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