緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(1)後輩が感じた“病魔の兆候”

アサ芸プラス / 2014年12月8日 9時56分

 昭和を代表する大スターの逝去──いや、それだけではない。今を生きる男たちにとって、高倉健という〈真摯な背中〉が見えなくなることは途方もない喪失感である。これみよがしではなく男として、俳優としての美学を教え続けたただ1人の存在。俺たちには「昔、男ありけり」を伝えていく責務がある──。

 高倉健(享年83)の遺作となった「あなたへ」(12年、東宝)を観て、東映ニューフェイスの2期後輩である曽根晴美は思った。

「最後の『ありがとう』ってセリフの声がかすれていて、先輩、どうしたんやろかって心配になったよ」

 同時期にオンエアされた「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK)を観た八名信夫は、明治大学でも東映でも後輩の立場から気遣った。

「あの映画が6年ぶりで、ここから6年先はわからないって言っていたけど、今までの先輩だったらあんな弱音は口にしなかったね」

 その遺作で惹句(コピー)を担当したのは、東映の「冬の華」(78年)以来、34年ぶりに組んだ関根忠郎だった。

〈ありがとう。人は、いつも伝えきれない想いを重ねて、一期一会の旅を続けている〉

 関根は当初、劇中で亡くなる妻(田中裕子)に沿った惹句を考えていた。それが急にプランを変更した。

「作品寄りじゃなく、健さん寄りのコピーにしたほうがいいと思えた」

 その瞬間に、前出の言葉が浮かんだ。それは、まるで高倉健という旅の集大成でもあるようだった。

 また偶然なのか、何らかの意図があったかは不明だが、劇中で同じように妻に先立たれた男(ビートたけし)に自分の妻の死因を告げる。

「悪性リンパ腫だったんです‥‥」

 その病名が自身に降りかかるとは“奇妙な符合”であった──。

 そして、それぞれに「兆候」を感じた東映の後輩たちは、古き良き日の「東映・大泉撮影所」に思いを馳せた。高倉は55年に「第2期ニューフェイス」として入所し、翌56年1月22日公開の「電光空手打ち」で主演デビューを飾る。ちなみにアサヒ芸能の創刊は同年の9月で、以来、現在に至るまで、本質的に「共通の客」と取り組んだことになる。

 さて、アクの強い風貌で知られる曽根晴美は、主にギャング映画で高倉と共演することが多かった。

「撮影所の健さんの控え室の真ん前が俺と千葉真一の部屋。そのとなりが梅宮辰夫だ。京都の撮影所の格式と違って、大泉は現代的だったから、窮屈な思いはしなかったよ」

 曽根や梅宮、千葉に故・山城新伍ら高倉を慕うメンバーで「野郎会」という親睦グループがあった。もともとは京都で中村錦之助が率いていた強豪野球チームに対抗するため、プロ志望だった曽根を中心に結成されたチームが始まりである。

「健さんには監督をやってもらったけど、バットに当てたら三塁に走り出すような野球オンチな人。仕方ないから『バントのサインを出す時はアゴに手を当ててください』って頼んだら、ずっとそのポーズばっかりだったよ(笑)」

 それでも、美人女優の佐久間良子が応援団長を買って出て、試合が終われば食事会が始まる。まだ20代の役者たちにとって、高倉を輪の中心とした青春の日々であった。

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