超伝導リングサイクロトロン――日本の科学技術は何のためにあるのか?
ASCII.jp / 2023年4月28日 9時0分
ザ・ループの世界へようこそ!
「理化学研究所のサイクロトロンを見学してきました」と、Kさんがポストされていたのは昨年12月28日のことだった。「サイクロトロンって見学できるの?」とコメントしてみると、「設計者であり建設プロジェクトを指揮した矢野安重博士の案内で見学させてもらいました。矢野くんは大学時代の同級生」などと書かれている。
Kさんは、私が使いつぶした「OASYS Pocket 3」(1994年発売)の担当者である。フルキーボード感覚で使える文字通りポケットサイズの端末。ザウルスやニュートンと同じ頃だが、MS-DOSが動いて、ソフトがSGMLベースだったり、アナログ携帯通信カードまでサポートされている。私は、それでバリバリ入力してモバイル通信しまくっていた。
サイクロトロン(加速器)という言葉くらいは、私も知っている。地下に設置された円形の巨大装置として建設されていて、ちょうど『ザ・ループ』( TALES FROM THE LOOP=プライムビデオで配信されているドラマ)に出てくる同じ名前の巨大な実験施設みたいなイメージである。
『ザ・ループ』では、物質や重力や時間に関する研究が「ループ」という施設で行われているのだが、この名前、「サイクロトロン」の一種であることを物語っている(サイクロ=円、ループ=円形)。ループは、我々の住む世界の常識を変えてしまう装置だが、サイクロトロンも非常に小さな粒子が対象ながら我々の常識を超えた世界を作り出す点で共通している。
Kさんに、「理研のサイクロトロンって取材できるのでしょうか?」と相談してみたところ、「矢野くんから取材を喜んでお受けしたいとの回答がありました」という返答をいただいた。2023年1月下旬、和光市にある理化学研究所の仁科加速器科学研究センターにおじゃますることになった。
日本は1937年に世界で2番目にサイクロトロンを完成しているんだよ
その日、副都心線の和光市駅から出てくると矢野安重博士(以下矢野さんと呼ばせていただきます)がにこやかに私を迎えてくれた。矢野さんは、今回見学させてもらう超伝導リングサイクロトロン建設に関わる中心人物。1991年に理化学研究所サイクロトロン研究室主任研究員、1999年に加速器基盤研究部長、2006年に仁科加速器研究センター長をつとめられ、2011年にヨーロッパ加速器グループから栄誉あるGersh. Budker 賞を授与されている。
和光市駅から理化学研究所まで歩いて向かう前に、駅前にある(!)元素の周期表で、今回の見学の“助走”ともいえる元素に関する基本レクチャーをしていただいた。2015年12月に新元素として命名権を獲得、2016年11月に「113番目の元素」として「ニホニウム」が認められたのをご記憶の方もあるはず。このニホニウムが、まさに理化学研究所仁科加速器科学研究センターで発見されたものなのだ。
理化学研究所の敷地の中に入ると目に飛び込んでくるのが、巨大なハンバーガーみたいな鉄の塊。実は、これもサイクロトロンだという。
私もそうなのだが、たぶん加速器の歴史に詳しい人は多くはないと思う。サイクロトロンの発明者は米国の物理学者アーネスト・ローレンスだが、そのローレンスの助言のもと理化学研究所の仁科芳雄博士が、1937年に世界で2番目となるサイクロトロンを建造しているのだそうだ。戦前の日本としては大きなトピックだろう。このサイクロトロンは、戦後、1962年に建設が始まり1966年に稼働した理研として第4号となるものとのこと。
ところで、アーネスト・ローレンスは、ソニーのテレビでお馴染みのトリニトロンブラウン管につながるクロマトロンの発明者でもある。ブラウン管も電子という粒子を飛ばす加速の仲間といってよいらしい。
いざ仁科加速器科学研究センターへ
仁科加速器科学研究センター(2018年に仁科加速器研究センターから改称)の建物に入ると案内されたのが、昨年10月28日に公開されたばかりの仁科芳雄記念室だ。仁科芳雄は、日本の原子物理学において最も大きな功績をのこした人物の一人。英国やデンマークの研究所での7年間のあと理化学研究所で研究を開始して、前述のとおり世界で2番目のサイクロトロンを建設。しかし、歩んだ道のりは、第二次世界大戦をはさんだ波乱の時代のまっただ中にあった。
仁科芳雄は、1946年には第4代所長となり理化学研究所の運営にも尽力したが、1951年1月10日に急逝。当時、理研は文京区本駒込にあり、その執務室は日本アイソトープ協会内で保存されてきた。その後、現在の理研に移転されていたものをクラウドファンディング(10,405,000円が集まった)を利用して作られたのが、この仁科芳雄記念室なのだ。
仁科加速器科学研究センターの入口のあたりには、サイクロトロンを正面から捉えて、仁科芳雄がその前にちょこんと座った壁いっぱいの巨大な写真が掲出されている。「この写真だれが撮ったんですか?」と聞くと、「土門拳ですね」とのこと。あとで気がついたのだが、日本を代表する写真家、土門拳の有名な写真集で132点の人物写真からなる『土門拳の風貌』に仁科芳雄があったのだ。
第二次世界大戦前の1939年(昭和14年)頃、仁科と研究室が2号機にあたる大サイクロトロンの建造の真っ最中に撮られたもので、土門拳は、次のように書いている。
「その大サイクロトロンを撮影に行っていた僕は、フト、大サイクロトロンを背景に仁科先生の肖像を撮ろうと思いついた。例の如く先生は《ああ、いいですよ》と承知して下すった。先生の人の好い、ユーモラスな人柄と、そのまるまっちい小作りな風采を表現するために、サイクロトロンの前に立っている鉄棒に腰かけて頂くことにした」
これだけでも、仁科芳雄の人となりが伝わってくるというものだが、その鉄棒にはボルトが出っ張っていたので段ボールを何枚もはさんで座ってもらったそうだ。この文の最後には、このサイクロトロンが戦後GHQの手によって解体され東京湾に沈められたとあり、その解体を指導している仁科芳雄の様子を新聞写真で発見。仁科の胸中を想わざるをえなかったと書いている。
理化学研究所の成立は、アドレナリンやタカジアスターゼの発見で有名な高峰譲吉の熱い思いがあったそうだ。欧米からの輸入や真似に頼っているのではなく日本も最先端の研究をやる必要がある。そこに、第一次世界大戦でそれまでドイツから輸入していた原材料が届かなくなり、このままでは化学工業が立ち行かない状況となる。1917年(大正6年) 渋沢栄一を設立者総代として「財団法人理化学研究所」(理研)が設立された。
理研では、さまざまな分野の基礎研究、応用研究がされてきたが、その中でも大きな位置を占めるのが量子力学や原子核物理学の研究だ。理研の創立当時、日本は、ほとんどの科学技術分野でキャッチアップの段階だったが、仁科が取り組んでいた量子力学はピカピカの最先端である。仁科が理研において研究をはじめたのが、1928年(昭和3年)。仁科は、「クライン=仁科の公式」などで世界的に注目を集めていたこともあり、湯川秀樹や朝永振一郎など若く優秀な研究者が集まってくる。
理研では1937年に1号機を完成。粒子を加速してそれを別の粒子にぶつけてやることで起こる現象によって粒子の性質などを研究できる。それだけでなく生成される放射性同位元素を使うことで医療や農業、生物化学などの分野でも活用されてきた。
サイクロトロンは、しばしば顕微鏡と比較して説明されることがあるようだ。観測したい対象物に対して光や電子を当てるのが顕微鏡だが、観測したい対象物に粒子を当てるのがサイクロトロンというわけだ。顕微鏡によって、生物の仕組みが分かり、病原菌が発見され、我々人類の死生観や歴史を変えてしまったといってよい。サイクロトロンも、同じように科学者にそれまで見えなかったものが見え、手になかったものが手に入るようにする絶対に欲しい道具である。
サイクロトロンによって、物質の本質や宇宙の誕生に迫ることができる。ニホニウムのように新しい元素を作り出すということも行われている。矢野さんは、「新しい元素を作るというのは錬金術だよ」と、独り言のように言われた。
21世紀のサイクロトロンが、16世紀はルネッサンスの錬金術師パラケルススと会遇する壮大な儀式がとり行われる舞台がサイクロトロンのような気もしてくる。『澁澤龍彦集成』(全7巻、桃源社)をなけなしのアルバイトのお金で買い揃えたことのある私は、このあたりのことは少々詳しい(黒魔術の手帖なんかの収録されている第1巻でしょうか)。
原子核物理学の大きな応用テーマがエネルギー分野である。そして、核エネルギーには平和利用のほかに原子爆弾という兵器として使われうるという側面があるのはご存じのとおりだ。第二次世界大戦という時代背景の中で「原子爆弾(ウラン爆弾)を開発せよ」という命令がときの総理大臣東條英機から直に下される。戦時における科学者の苦悩がうかがえるというものだが、『日本原爆開発秘録』(保阪正康著、新潮社) によると、仁科や日本の関係者は「ウラン爆弾は作れない」と考えていたようだ。
そして、『土門拳の風貌』にもあったとおり、理研の大サイクロトロンは、GHQの命令で東京湾に沈められることになる。こうした悲運にも関わらず、仁科をはじめ日本の原子核物理学の世界は、戦後、復活をはたしていく。敷地内で最初に説明してもらったのが4番目に作られたサイクロトロンで、1966年10月に陽子加速に成功。案内していただく2007年に仁科加速器研究センターと同時に建設されたRIビームファクトリーと中核的な超伝導リングサイクロトロン(SRC)で、世界のトップへ踊り出る。
仁科記念室には原子核物理学の歴史がパネル展示されているのだが、動画は、私の質問に丁寧に答えてくれる矢野博士の物質波とフォトンの説明。量子コンピューターにしても深層学習でも経験していることだが研究者の親切な説明がいちばんわかりやすい。
超新星爆発を再現する
今回の見学がぜいたくなのはこの仁科加速器科学研究センターが、案内していただいている矢野安重博士が、それを理研に提案して、その初代センター長をつとめた人物であるという点にある。
1948年生まれ、先にも触れた矢野博士の経歴をみるとサイクロトロン一筋の研究者人生を歩んできた。それは、仁科芳雄の遺志を引き継ぐ仕事だったといってよいのだと思う。現在、理化学研究所仁科加速器科学研究センター客員主管研究員であるとともに、仁科記念財団の常務理事も勤めている。
仁科加速器科学センターにいたる理研のサイクロトロンの歴史と、矢野さんがどのようにRIビームファクトリーの建設に取り組んだかは、日本加速器学会誌に掲載された『理研の加速器小史とRIBF建設の回想 -日本の加速器科学発祥の地「理研」創立100周年に寄せて』に、その経緯は詳しい。
センターに仁科芳雄の名前を冠して設立したいと考えたのも矢野さんだそうだ。「ローレンス・バークレイ研究所」を意識してだが、バラバラになっていた理研の理論・実験グループ、加速器グループ、応用研究グループなどを統合したことで、同センターは《仁科研究室の再来》といえる組織。世界最高性能のサイクロトロンを作るという《仁科の夢の1つが実現した》ということでもある。
さて、仁科加速器科学研究センターのRIビームファクトリー(RI=放射性同位元素)だが、図の中で「AVFサイクロトロン」と「~RC」と書かれたいくつもの加速器が連なった上流と、加速した重イオンを標的となる原子核に衝突させたあとの「BigRIPS」と書かれた下流から構成されている。上流の最後にある大きなサイクロトロンが、今回見学させていただく超伝導リングサイクロトロンだ。下流にあるBigRIPSは、目的別にビームをふるい分ける超伝導RIビーム分離装置であり、実験棟へと繋がっている。
何か大きなそれこそ巨大なループ状の装置が1つだけドカンとあるのかと思ったら、こんなNHK Eテレの「ピタゴラスイッチ」か《流しそうめん》のようなウネウネとした流れ作業の文字どおり工場ラインのような作りになっていたとは想像もしていなかった。
矢野さんに先導されて扉を抜けた大きな空間に、超伝導リングサイクロトロン(SRC)が現れる。
私の世代だと1960年代のSF人形劇『サンダーバード』の基地に入り込んだような気分になるのは、ただ天井の高い施設ではなく、研究者であるブレインズがどこかで仕事をしているような気配があるからか。この淡い黄緑と藤色のツートンカラーで塗られた巨大な鉄の構造物の鋭角ぶりは、どちらかというと《機動戦士ガンダム》の世界に近いのかもしれない(そういえば、最初に見た第4号サイクロトロンの大きな鋲の具合は《鉄人28号》のようでもあった)。
鉄の階段をガンガンと上がっていくと、超伝導リングサイクロトロン(SRC)の全貌が視界の中に入ってくる。直径約19メートル、高さは約8メートルという大きさだが、シールドのための純鉄の塊からなっていて、総重量は8300トンもあるそうだ(ザッと乗用車を5000台くらい集めた重さ)。矢野さんによると、開発途中の設計変更により4000トンの鉄を新たに調達しなければならなくなったが、偶然にも鉄のお値段がほぼ底値の時期で助かったそうだ(いまでは数倍の価格)。
この超伝導リングサイクロトロンは、《世界初》であると同時に加速性能を表す K値は2600MeVとそれまでの最高値の2倍以上となる《史上最強》のサイクロトロンとして作られた。6基の超伝導セクター電磁石によって、史上最強のイオンビーム偏向能力 8Tmを達成。サイクロトロンは、粒子に対してブランコというかハンマー投げのようにタイミングよく磁場をかけることでいわゆる《ローレンツ力》によって粒子をグイグイ回転させて最後に解き放つわけだが、そのパワーが凄い。
これによって、ウランまでのすべての元素の重イオンを《光速の約70%》まで加速できる。
そんなに加速してどうするのかというと、超新星爆発による元素合成の研究に大きな意味を持つのだそうな。というのはどういうことかというと、ビッグバンで生まれたのは、元素の周期表では最初の3つ。水素、ヘリウム、リチウムだけ。それ以降の原子番号26の鉄までは星の中で順次作られたが、そこから先の原子番号92のウランまでは、超新星爆発によって作られたという説がある。超伝導リングサイクロトロンという強力なサイクロトロンによって、超新星爆発のとき一瞬で消えた超中性子過剰な原子核を作り出せるようになった。
要するに、この超伝導サイクロトロンによって、はじめて満足に我々が知っている自然界に存在する原子核を加速できるようになったといってもよいのだろう。RIビームファクトリーは、『ギネス世界記録』(ほかでもない角川アスキー総研が日本版を出版しておりますが)に登録されているが、史上最強であると同時に、あるべきスペックにようやく到達したということなのかもしれない。
ところで、「サイクロトロン」(cyclotron)という私たちをことさらワクワクさせるように思える名前。調べてみると、接尾辞 -tron は、当時の電子デバイスの名前の付け方の流行に乗った感じのようだ(ケノトロン、マグネトロン、サイラトロンなど)。研究室で俗語的に使っていたものが5年ほどを経過して印刷物でも使われるようになった。円を意味するサイクロも電子(もとは琥珀)のエレクトロンもギリシャ語から。
次の動画は、3メートルの自撮り棒から超伝導リングサイクロトロンを撮影をさせてもらったもの。360度動画なので全画面にしてグリグリと画角を動かしてみていただきたたい。
ギネス世界記録にも《ビームエネルギー最大値のサイクロトロン》とあるからには、さぞかし電力を消費することが想像される。理研としても環境負荷を配慮したい考えだったが、東京電力と打ち合わせをする中で大きな壁にブチ当たる。あまりに受電容量が大きいので変電所を増強しなければならない、となると当初の試算を大きく上回る費用がかかる。悩んだ末、天然ガスを買ってガスタービンで自家発電するとともに排出される水蒸気を再利用して冷房能力を生み出すというエコなシステムを作りあげたそうだ。
超伝導リングサイクロトロンを堪能させてもらったあとは、目的別にビームをふるい分けるBigRIPS(超伝導RIビーム分離装置)のエリアに向かう。世界最多の約4000種類のRIビームを作りだすことができ、そのうちの約1000はいままで作ることのできなかった放射性同位元素だそうだ。
写真の右奥手(この写真では見えない先になるが)で超伝導リングサイクロトロンから出てきた重イオンを標的に衝突させる。そこから出てきたRIビームは、このBigRIPSの中を通過して必要な原子核だけが取り出される。
理研はなぜ《仁科芳雄の遺志》をここまで大切にするのか?
BigRIPSを抜けると取り出したRIビームを使うための実験棟になっている。RIビームは、原子核の内部構造や核反応の解明のほか、先にも触れたとおり、化学、生物学、薬学、医学、材料、工学、さらには宇宙関連とさまざまな分野で活用される。国際的な共同研究などもさかんに行われていて、ここで、矢野さんから「コペンハーゲン精神」という言葉を教えてもらった。
コペンハーゲン精神とは、量子力学の創始者の1人であるニールス・ボーアが所長をしていた理論物理研究所で研究していた物理学者たちが持っていた精神のこと。その大きな特徴は、研究者の地位や国籍に関わらず、自由に討論することで、新しい発見や理論を生み出すことになった。
仁科芳雄は、このコペンハーゲン精神を育んだボーアの研究所と深いかかわりがある。ヨーロッパ滞在中の1923年、仁科は、ボーアにコペンハーゲンで研究したいと手紙を書く。ボーアはそれに答えて仁科のために奨学金を獲得、仁科は、ボーアのもとで5年間の研究生活を送ることになったのだ。そして、コペンハーゲンでその自由な空気を体に染みこませたまま、1931年に理化学研究所で仁科研究室を主宰する。
そんな仁科の研究に対する姿勢が、いまも仁科加速器科学センターに引き継がれているというわけだ。
およそ3時間以上かけて、仁科加速器科学研究センターのいちばん重要な部分を見学させていただいた。矢野安重氏には、いかにも楽しそうに解説していただいたが、RIビームファクトリーの建設は前述の加速器学会誌への寄稿を見るとそう簡単ではなかったことが分かる。鉄の調達や電力供給のことは触れたが、そもそも、世界初の超伝導リングサイクロトロンの開発、RIビームを取り出すまでの全体の構成、もちろん予算や周辺のさまざまな事情もある。
理研と同じようにRIBFの開発をめざした、ドイツのMTU、フランスのGANIL、アメリカのNSCL、ロシアのJINRでの設計が現実的ではなくすべて幻に終わっているのだ。寄稿の中では、矢野さんは「建設に着手した頃は、無謀なSRC、不毛なMUSESと頭を抱える日々もあったが、意気に感ずる先輩と同僚、後輩たちの総力戦で、盤石なるSRC、豊穣なるRIBFが実現した」と書かれている(MUSESについては前述の寄稿参照)。
「理化学研究所のサイクロトロンって凄そうじゃないか」という興味からはじまった今回の見学。その現物を目の当たりにして感じたものは多かった。少しは加速器を理解しようと思って読んだ入門書で世界は11次元(超弦理論)というあたりも面白かった。しかし、日本の近代科学の歴史や仁科芳雄という人物について踏み込んで知ることができたことが、今回の収穫である。
1930年代、ほとんどの研究や産業の分野で欧米に大きく立ち遅れていた日本にとって、量子力学は、他の国と同列のスタートができる新分野だった。そこに、気鋭の研究者たちが情熱を傾けて研究にはげむことができる環境が作られた。日本のノーベル賞の最初と2番目の受賞者、湯川秀樹と朝永振一郎が、仁科研究室に在籍していた研究者だったことが物語っている。
それは、日本が世界の一線に出ることができるという自信を他のジャンルの研究者たちにも与えただろう。しかも、ギリシャ時代の四元素説からつづく世界を構成するものとは何か? という、哲学や宗教にも近いといって差し支えない“高み”にあるテーマに堂々とチャレンジする。《仁科芳雄の遺志を受け継ぐ》というのは、理研は歴史があるから先達に敬意を表するとかといったことではなく、我々が未来に対してポジティブかつアグレッシブであるためなのだ。
それに必要なのは、新分野に興味を持つことと、自由で若々しい研究である。
■関連リンク 理化学研究所:https://www.riken.jp/ 仁科加速器科学研究センター:https://www.nishina.riken.jp/ 仁科記念財団 仁科芳雄デジタル記念館:https://www.nishina-mf.or.jp/doctor
遠藤諭(えんどうさとし)
株式会社角川アスキー総合研究所 主席研究員、『MITテクノロジーレビュー日本版』アドバイザー。プログラマを経て1985年に株式会社アスキー入社。月刊アスキー編集長、株式会社アスキー取締役などを経て、2013年より現職。「AMSCLS」(LHAで全面的に使われている)や「親指ぴゅん」(親指シフトキーボードエミュレーター)などフリーソフトウェアの作者でもある。趣味は、カレーと錯視と文具作り。2018、2019年に日本基礎心理学会の「錯視・錯聴コンテスト」で2年連続入賞。その錯視を利用したアニメーションフローティングペンを作っている。著書に、『計算機屋かく戦えり』(アスキー)、『頭のいい人が変えた10の世界 NHK ITホワイトボックス』(共著、講談社)など。
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