【ビデオ】1964年のあの日、「スカイライン伝説」が生まれた瞬間の貴重な映像!

Autoblog JP(オートブログ) / 2012年12月12日 21時20分

【ビデオ】1964年のあの日、「スカイライン伝説」が生まれた瞬間の貴重な映像!


1964年に開催された第2回日本グランプリ。このレースで、後に日産と合併するプリンス自動車から出場した「スカイライン」が、あのポルシェを抑えてグランドスタンド前を走り抜け、これを観た大勢の観客たちが熱狂した。「スカイライン伝説」のはじまりである。このエピソード、聞いたことはあっても実際に映像を見たことがある方は少ないのでは? 日産は12日、YouTubeの公式チャンネルでこの貴重な映像を公開したので早速ご紹介しよう。
今でこそ「日産 GT-R」と「ポルシェ 911」は、いわゆる "ガチンコのライバル" として世界的にも認められている。それは最高出力、最高速度、そしてニュルブルクリンク北コースのラップタイムなど、各種の数字が表すところだ(ガチンコでないのは価格くらい...?)。だから、この2台がデッドヒートを繰り広げる様子を見れば依然として胸躍るが、わずか1周ばかり、GT-Rが911の前を走ったくらいでは大騒ぎするほどのことでもない、と思うのが現在のほとんどの人の気持ちだろう。

だが1964年、日本のモータースポーツ黎明期に鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリは、今と状況がかなり異なっていた。



プリンス自動車がこのレースに投入した「スカイラインGT」は、1,500cc直列4気筒を積む小型ファミリー向けセダンとして開発された2代目スカイラインの、エンジンルームをホイールベースごと、いわば「切った貼った」して無理矢理20cm延長し、そこに上級モデル「グロリア」から流用した直列6気筒1,988ccエンジンを押し込むという手法によって、高性能なGTとして仕立てたクルマ。。当時このスカイラインGTをドライブした砂子義和氏はこう振り返る。

「ボディをここ(Aピラー)からちぎって20cm伸ばしたような状態なわけ。だからボディとしては物凄くバランスが悪かった。しかもタイヤが全然アウト(ダメ)だろ。だから結局、もうドリフトする以外は仕方がない恰好になっちゃったわけさ。でも要するに、タイヤが滑ってくれるから、ボディの剛性も、普通のままでよかったわけ」



だがこの些か乱暴な手段は、実際に「速いクルマ」を生み出すことに成功した。砂子選手は鈴鹿で、日本車として初めて2分50秒を切る、2分47秒というタイムを記録。「当時は、鈴鹿サーキットで1番速いのはこれだ!って言って威張っていたわけよ」と語る。ちなみにこのアイディアは、当時のチーフエンジニアで後年も「スカイラインの父」として知られる桜井眞一郎氏の発案だったそうだ。プリンス自動車はこのスカイラインGTをレースに出場させるため、100台の規定生産台数をぎりぎりでクリア。優勝間違いなしと信じ、意気揚々と鈴鹿に乗り込む...はずだった。



しかしレース開催直前となる頃、前年の第1回日本グランプリで「トヨタ コロナ」を駆りクラス優勝した式場壮吉選手が「ポルシェ 904 カレラGTS」を個人で購入し、急遽プライベーターとして参戦することが決まる。このカレラGTSとは、ポルシェ初の市販スポーツカー「356」の中でも超高性能な「356B 2000GT」通称「カレラ2」に搭載されていた1,966cc水平対向4気筒4カムDOHCエンジンをミドシップ・マウントし、空力的かつ軽量なFRP製ボディを被せた本格的なレースカーであった。当然一般の個人が買うなんて信じられないくらい高価格であったため、当時は式場選手と契約していたトヨタがプリンス自動車の優勝を阻止するために資金を提供した、などいう噂もあったようだ。だが、式場氏によると、購入価格の半分は自身がジャズ・ミュージシャンとして稼いだ(かなりのギャラを貰っていたとか)貯金やトヨタから貰った契約金をはたき、残りの半分は父親が経営する病院を継ぐという約束で出してもらったそうである。だからだろうか、当時は才能を嘱望されたにも関わらず、式場氏は早々にレーシング・ドライバーを引退。そのままレースを続けていれば、日本人初のF1ドライバーになったかも知れない、とまで言う人もいる。


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