芸能界のスターたちが戦った86年前の「桃色争議」、今に通じる「世論が味方」の戦法

弁護士ドットコムニュース / 2019年7月15日 9時35分

こうした技術進歩により、活弁士や楽士の仕事が奪われていきました。「モロッコ」の上映では、弁士が不要となり、配給元のパラマウント映画に抗議が行われたほどでした。

当時は昭和恐慌のさなかと言うこともあり、映画会社は、経営体力の強化を図っていました。こうした中で起こったトーキー化は、人員整理を呼ぶことになります。トーキー化によって、仕事を失ってしまった活弁士や楽士は、首切りの対象となっていきます。こうした動きに対して、反トーキー映画と待遇改善を求めて、各地で労働争議(トーキー争議)が頻発します。松竹で起こった労働争議も同じような背景のものでした。

1932年(昭和7年)、松竹は映画活弁士、楽士の首切りを通告します。これに対して、活弁士、楽士たちは、ストライキなどを駆使して抵抗しますが、結局、会社側の勝利で幕を閉じました。松竹以外の各映画会社でも、同様の争議が起こっていましたが、トーキーを導入することで、入場者数が増加しており、トーキー導入の動きを止めることは出来ませんでした。結局、トーキー導入阻止や解雇撤回は実現出来ず、解雇手当の増額や解雇制度の確立と言った条件闘争に終始せざるをえませんでした。

翌年、松竹は、今度は松竹少女歌劇部に対し、一部楽士の解雇ならびに全部員の賃金削減を通告しました。これに対して、歌劇部側は、トップスターだった18歳の水の江瀧子を争議委員長に任命し、対抗します。これが「桃色争議」でした。

●きっかけは待遇改善、湯河原の旅館に立てこもり

「桃色争議」の発端は、はっきりとしていません。作家の中山千夏の書いた水の江瀧子の評伝(中山千夏『タアキイ―水の江瀧子伝』(新潮社、1993年)にも、中山はあまりはっきりとしていなかったと書いています。しかし、きっかけが音楽部の待遇改善にあったことはうかがえます。

当時の音楽部の待遇は悪いものでした。給料は安い。3回の公演は、3回とも同じ楽士がやる。ご飯を食べる暇もない。ボックスの中は埃だらけで、病気になる人は多い。しかも、病気になった時は見舞いもくれない(中山『タアキイ』175頁)。

こうした状況に対して、音楽部が待遇改善を求めて交渉を重ねていましたが、松竹側は24人の楽士に対して、30人の解雇を通告しました。楽士ほぼ全員と演奏家以外で30人ということです。これに対して、音楽部は争議を興すことにしました。しかし、音楽部だけでは、力不足と言うことで、水の江瀧子に合流を持ちかけました。

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