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東京都板橋区にお城の空壕があった!! バイクで往く城跡巡り 「熊野神社」と「志村城跡」

バイクのニュース / 2021年6月6日 13時0分

東京23区内には、じつに100もの城があったとされ、仕事や生活で身近なエリアも、かつては城や要塞だった可能性があります。そんな城跡を原付バイクで巡る旅、東京都板橋区の「熊野神社」を訪れました。

■まさか東京23区で空壕(からぼり)が見られるとは……

 東京都板橋区志村にある「熊野神社」は、「志村城跡」とも語り継がれています。バイクで城跡巡りをしていると、なぜ武将がこの地に城を築こうとしたのか、なんとなく感じられることがあります。

 この志村城は高台の上にあり、そう簡単には攻め落とせない要害の地であることを物語っていました。現在はバイクで簡単に上がっていける坂も、もし当時、ここに深い堀などが築かれていたら、人間の足ではとても侵入できないはず。そんなことを想像しながら、いざ熊野神社の鳥居を潜ります。

 すぐに目につくのが志村城と熊野神社の説明板です。そこには次のように書かれていました……

 志村城は、康正二(1458)年に千葉自胤(よりたね)が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。

 本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ“守るに易く攻めるに難し”といわれる堅城であったが、大永四(1524)年に北条氏綱に攻められて落城した。

 熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久三(1042)年、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。現在の社殿は昭和三十二年に改築されたものである。社殿の西側には今でも

の跡を見ることができる。

 ……熊野神社は全国に3000社もあると言われますが、紀州が本営。その熊野神社を志村将監が勧請されて建てられたとされています。源氏の武者も武運を祈願していたことから、戦国時代と神社は密接な関係だったのでしょう。その後、説明板にも書かれているように、千葉氏が前衛拠点として城の形を作ったようです。

 少し話は逸れますが、板橋区の志村という地名の由来の志村氏に関しては、板橋区志村一丁目に「志村一里塚」があるので、そこでも歴史に触れることができます。

城跡好きであれば興奮するであろう空壕跡が、社殿西側の低地に残っている。本丸(現在の志村小学校)と二の丸(熊野神社)の間の空壕だとか。都市部とは思えない静謐なヒストリースポット

 神社の境内を歩くと、説明板に書かれていた空壕(からぼり)の跡にたどり着くことができました。空壕とは水の張っていない堀で、防衛のための基本的な機構です。山城などに行けば、高い確率で見ることができるのですが、まさか東京23区で見られるとは思いもしませんでした。車や歩行者が行き交う都市部なのに、そこだけは武士たちの息吹が感じられる空間だったのです。

 小回りの効くバイクならば、こんな風に身近な場所の歴史に触れるチャンスがあるのかもしれません。

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