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「小牧・長久手の戦い」 家康と秀吉が火花を散らした激戦地をスーパーカブで訪れた

バイクのニュース / 2023年8月14日 12時10分

NHK大河ドラマ『どうする家康』では、松本潤さんが演じる徳川家康が数々の危機を切り抜けていく姿がドラマチックに描かれています。ここ愛知県の尾張地区にある長久手市は、「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」の舞台として知られています。長久手の激戦地をスーパーカブで訪れました。

■あまりにも多くの戦死者を出した激戦地

 1584年の「小牧・長久手の戦い」は、羽柴(豊臣)秀吉と、織田信長の次男、信雄(のぶかつ)、徳川家康連合軍の反目で起きた戦です。4月9日の「長久手合戦」では戦死者の山が築かれたと伝えられています。現在は住宅地となっていますが、当時は数々の血なまぐさい戦いが行われていたのでした。長久手市内をスーパーカブで巡ると、数々の塚や石碑、城跡などを見ることができます。

家康方についた城兵230名が戦死したと伝わる「長久手城址」を訪れた。現在は石標が立つ家康方についた城兵230名が戦死したと伝わる「長久手城址」を訪れた。現在は石標が立つ

 中でも印象的だったのは「木下勘解由塚(きのしたかげゆづか)」です。秀吉軍の岡崎侵攻の総大将であった三好信吉(秀吉の甥、当時17歳、後の豊臣秀次)が、尾張旭市の「白山林の戦い」で敗北しました。

 この戦をもう少し紐解くと、4月9日の早朝、秀吉隊の最後尾を務めていた秀次が、白山林で朝食をとっていた時に徳川軍の先遣隊に攻撃され、慌てて防戦するもの総崩れとなりました。

 自分の馬を見失った秀次は、荒田という地まで徒歩で逃げ、家臣の木下利匡(としまさ)と出会います。利匡は自分の馬を信吉に与え、兄の祐久(すけひさ)も敵を食い止めてこの付近で戦死したとのことです。

「木下勘解由塚」は、敗走中の三好信吉(豊臣秀次)を救い、自ら家康軍と戦い死んでいった木下兄弟を弔う場所「木下勘解由塚」は、敗走中の三好信吉(豊臣秀次)を救い、自ら家康軍と戦い死んでいった木下兄弟を弔う場所

 ここには「勘解由塚(かげゆづか)」と呼ばれる塚が立っています。周囲にはマンションが建ち、クルマの往来も多い場所ですが、このエリアだけは、大河ドラマの主人公・徳川家康にとっては敵ながら、命を賭けて戦った武将の息遣いを感じさせるものがありました。

 また、池田隊の大群に敗れて城兵230余命が戦死したとされる「長久手城址(ながくてじょうし)」も訪れました。ここは後に民家が立ち、荒れ果てたそうですが、1809年に戦で亡くなった際の城主であった加藤太郎右衛門忠景(かとうたろうえもんただかげ)の子孫、尾張藩氏が訪れ、観音堂脇に石標を建てて供養したそうです。

戦死者の山が築かれた長久手の惨状を目の当たりにし、「岩作村安昌寺(やざこむらあんしょうじ)」の雲山和尚(うんざんおしょう)が村人たちとともに埋葬し、塚を築いて供養したという戦死者の山が築かれた長久手の惨状を目の当たりにし、「岩作村安昌寺(やざこむらあんしょうじ)」の雲山和尚(うんざんおしょう)が村人たちとともに埋葬し、塚を築いて供養したという

 ほかにも、村人たちが死者たちを埋葬した首塚や、前述の白山林の合戦場であったとされる「兜神社」、家康が敗走した味方の救援のために進軍した「未旗山(みはたやま)」(富士社)、家康によって修復され、三河との連絡用の城として活用した「小幡(おばた)城跡」などを訪れました。

地元で神社として祀られている「富士社(富士浅間神社)」もまた、長久手古戦場の「御旗山」に建っている。三好信吉を破った先遣隊が敗走した際に救援に向かった家康の進軍地だ地元で神社として祀られている「富士社(富士浅間神社)」もまた、長久手古戦場の「御旗山」に建っている。三好信吉を破った先遣隊が敗走した際に救援に向かった家康の進軍地だ

 毎年4月9日は、いまでも「長久手古戦場桜まつり」が開かれ、多数の死者を出した、大きな戦の記憶を紡いでいます。

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