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人生の節目を過ごした「駿府城」のいま 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅

バイクのニュース / 2023年8月30日 19時40分

幼少時代の徳川家康(松平竹千代)は、静岡県の駿府にて、今川氏の元で教育を受け生活していました。人質の立場ではあったものの、19歳に至るまでの12年間は武将としての器や人間形成に重要な期間だったとも伝えられています。静岡市の「駿府城公園」をスーパーカブで訪れました。

■幼少時代を過ごした地へ戻り、現在の町の原型を作った

 NHK大河ドラマ『どうする家康』でも描かれているように、家康は愛知県の「岡崎城」、その後静岡県の「浜松城」を居城としています。現在の静岡市である駿府は、1568年に今川氏真(いまがわうじざね)が武田信玄に攻められ、1582年には家康が駿府の武田家を攻めたことで、2度に渡り街が壊滅したと伝えられています。

「二の丸」の東南の角にある「巽櫓(たつみやぐら)」の前にて。その先には1996年に復元された「東御門」がある。バイクは近隣の原付駐輪場へ停めて散策した「二の丸」の東南の角にある「巽櫓(たつみやぐら)」の前にて。その先には1996年に復元された「東御門」がある。バイクは近隣の原付駐輪場へ停めて散策した

 そんな駿府に居城を構えるべく、家康は1585年から築城を開始し、1589年に「駿府城」を完成させています。

「浜松城」から「駿府城」へ居城を移した理由は諸説あり、「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」のあと、重臣の石川数正(いしかわかずまさ)が豊臣秀吉の元へ出奔したことから「軍事機密の漏洩を防止するため」や、「西の秀吉、東の北条とのちょうど良い距離だから」という地理的な原因などが挙げられています。

「二の丸」の東に位置する「東御門」は、主に重心たちの主要な出入り口として機能していたようだ。1634年に天守閣と共に消失したが、1638年に再建している「二の丸」の東に位置する「東御門」は、主に重心たちの主要な出入り口として機能していたようだ。1634年に天守閣と共に消失したが、1638年に再建している

 以前、浜松の「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」の舞台を訪れた際に地元の方から伺ったのは、「妻の瀬名(築山殿)や、嫡男の松平信康(まつだいらのぶやす)が非業の死を遂げた浜松に居るのが辛かったのではないか」という話でした。

 これはあくまでも個人の見解でしたが、人としての気持ちを考えた時、何か共感できるものがあります。

「天守台」は現在も発掘調査中。見学ゾーンも設けられ公開されている。2016年から2020年にかけて掘削による調査が行なわれ、現在は出土した遺物の整理などが行なわれているようだ「天守台」は現在も発掘調査中。見学ゾーンも設けられ公開されている。2016年から2020年にかけて掘削による調査が行なわれ、現在は出土した遺物の整理などが行なわれているようだ

 ちなみに「駿府城」が完成した翌年、家康は関白となった秀吉の命によって関東に国替え(移封)されて江戸に移りました。

 その後、天下統一を果たした家康は江戸幕府を開き、秀忠(ひでただ)に将軍職を譲り、1607年に大御所として「駿府城」に戻ってきたのです。

 江戸から駿府に戻った家康は、全国の大名を動員した「天下普請(てんかぶしん)」によって城を大改修します。その際の町の整備、治水事業などによって、現在の静岡市の原型が作られたとのことです。

 城は現在「駿府城公園」として整備され、静岡市の中心的なスポットとなっています。

大御所時代の家康像は、鷹狩り用の鷹を手に掲げ、凛とした出で立ち。こう言ってはなんだが、どこか可愛らしくもあり、相当健康な老人であったことが想像できる大御所時代の家康像は、鷹狩り用の鷹を手に掲げ、凛とした出で立ち。こう言ってはなんだが、どこか可愛らしくもあり、相当健康な老人であったことが想像できる

 現地に訪れたときは偶然にも「駿府城夏まつり」が開催され、多くの来場者で賑わっていました。

 静岡県指定天然記念物である「家康手植のミカン」の近くには大御所時代の家康公像が立ち、発掘調査が進行中の天守台は見学も可能でした。

 真夏の酷暑ではありましたが、まつりの賑わいを楽しみつつ、歴史探訪も満喫できたのでした。

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